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井草 村田時計工業所 村田規晥(ノリキヨ)さん
初めてお会いした時、ワイヤールーペをつけて迎えてくれました。かたときもこのルーペを離さず過ごされているのではないかというのが第一印象でした。
村田さんは81才になります、まだまだ元気に第一線で活躍しております。特別に何か健康法をしていますか?と尋ねますと「いやなにもしてないよ」との返答です。時計に向かって仕事をしている時が一番の健康法ではないでしょうか。
村田さんは山梨県大月市でお父さんが営む時計修理の家に生まれました。時計の修理だけではなく、蓄音機やラジオの修理も引き受けてご近所からとても重宝で喜ばれていました。小学生のころにはお父さんの仕事を見て機械に興味を持ち、時計や蓄音機のゼンマイの交換をみよう見まねで行っていました。中学生になると自分で5球スーパーラジオを組み立て、「初めてスイッチを入れた瞬間シューツと音が鳴って声が聞こえた時は嬉しかったな~」と懐かしんでいました。
その後専門学校のラジオ学科に進み、ラジオの仕組み、原理を学びました。当時父は“経験と感”で故障の原因を見つけて、修理をしていたが、自分は故障の原因を理論的に把握し修理ができて、設計図が頭の中に入っていた。自分でオリジナルのラジオを作り100台ほど売ったよと話していました。
その頃、兄も時計修理の仕事をしており、初任給が16.800円の時代に月10万円を稼いでいるのを聞いて、自分もやってみたい、その道に進もうと決意しました。バラバラの部品を組み立て完成させる仕事です。普通は一日頑張って20個位でしたが、村田さんは40個仕上げました。何よりも達成感、満足感を満たす事ができ収入も10万円ほど稼ぐことができたそうです。
そこから修理専門の仕事に進み、多くの同業の方やパーツメーカーの方と人脈が広がっていきました。後に独立してからどんな部品でも入手できるようになったのは、この頃の人脈のおかげですと話していました。やがてメカ時計(機械式)からクォーツ時計の時代に移っていきます。クォーツの時計では長年培ってきた技術は生かせず仕事の量は減っていく事になりますが、あくまで自分の技術を生かしたいと四六時中仕事に没頭できる自宅に時計修理の部屋を作り、村田時計工業所としてスタートしました。その時、銀座の大手時計会社の指定工場になり修理に必要なとても高額な機械、道具など支給していただき強い信頼関係が生まれたと話していました。
今は正確な時間を求めるのであれば、電波時計やスマートフォンでいいでしょう。でも自分しか持っていないアンティーク時計、高価なファッション時計やステータスのブランド時計などまだまだメカ時計の愛用者は多くいらっしゃいます。これからも自分の技術は生かせる時代は続く、とにかく時計が好き、どんな時計でも直す事に喜び、生きがいを感じる、リタイアなど考えた事はない仕事ができるうちはいつまでも続ける、と笑顔で語りました。
村田規晥さんは此の八月にご逝去されました。心より御冥福をお祈り致します。
文 冨澤信浩
写真 奥村森
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