見聞・『荻窪風土記』———相沢堀の巻

 八丁から青梅街道を歩いて、と言いたいところだが、荻窪から地下鉄に乗って一駅の南阿佐ヶ谷駅で降りて相沢堀をたどっていくことにした。向かう先は高円寺、中野方面だ。新潮文庫版の『荻窪風土記』(23頁)に「今、八丁通りと平行に地下に潜っているクリークは、大震災前にはきれいな水が流れていた。その用水が今の公正堂ゼロックス店のところで……阿佐ヶ谷に向けて分流する用水」と書かれているのが相沢堀で、「相沢堀は、今の杉並区役所の手前のところから阿佐ヶ谷田圃へ入り、東流して高円寺、中野を通り(桃園川)新井、落合に流れ、昔の神田上水の神田川に合流、関口大滝のドンドンで早稲田lの蟹川を暗渠で合流させている」とある。

逆U字杭を探す

杉並区立第七小学校

 地下鉄南阿佐ヶ谷駅で降りて地上に出れば、そこは杉並区役所のそば、「杉並区役所の手前のところ」とはどの辺りになるのか?青梅街道を荻窪方面に戻ることになるが、そこここにある案内板ではまるで分らない。行き当たりばったりでは迷子になるだけだ。便利なネットで調べてみると、阿佐谷南3-9辺りが、「杉並区役所の手前」になるのではないかと、見当をつける。住居表示を確かめながら歩いて行くと、あった。成田東5丁目の信号のところだ。右に曲がるとすぐ、杉並区立第七小学校につきあたる。左手の角の建物には「日本大学相撲部」の看板が下がっていた。この間の道に立って左右を見回すと左手に、暗渠の印だと,八丁の取材時にお世話になった志村さんから教わった逆U字型の車止めがたっている。その後ろの暗渠の上には杉並土木事務所と手書きで書かれた鉄板がかぶせてあった。そこから上流方向に向かえば青梅街道に出られるかと思って歩いて行くと、すぐに突き当たって右に折れた道は50㍍ほどで行き止まりになっていた。相沢堀に間違いないな、と思いながら戻ってくると、小学校の校庭で遊んでいた女の子が「おじさんたち何してるの?」と金網越しに聞いてきた。カメラやメモ帳を持ったオヤジたちがうろうろしているのが、その子の好奇心をかき立てたのだろうか。「川を探しているの」と答えると、「ここに川なんてないよ」、と即座に返ってきた。「いいの、あるんだからさ」とは言わなかった。相沢堀はこの小学校の校庭の下をほぼ対角線上にくぐって流れているということなので、学校の塀沿いに廻ることにした。

日本大学相撲部

 学校の塀は途切れて途中から住宅街になってしまうので不安になるが、小学校の先の角を右手に折れて阿佐ヶ谷方向に向かっている通りに入った。直ぐ、右手奥に暗渠らしき道が見えたところで曲がってみると、逆U字型の車止めがあったので一安心。そこで川上に行く道は狭くなっていて、その路の左側には背の低い木が茂り、右側に立ち並ぶ家々はみな庭が路に面している。まさに川にふたをして道にしたという様がそのまま見てとれる。とりあえず奥まで行って、確かに小学校の塀から出て来た川ということを確認して逆U字杭に引き返した。

杉並区立第七小学校裏手

 そこから今度は逆に、川下方向に向かう広い道をたどることにした。かつて道路の横を流れていた相沢堀を暗渠にしたせいなのだろう。その分、道が広がっている。歩いている我々の左手に暗渠部分がある。右手に並ぶ家の玄関はこの道路に面していて、左手に並んだ家は庭が道に接している。こういう場所はいいのだけれど、もともと川だけが流れていて両岸が人家というところを暗渠にされてしまうと困ったりしないだろうか。遊歩道として利用されると、そこを歩く人に家の裏側を覗き見られる格好になる。住む人たちは落ち着かない気持ちがするのではないかと、よけいな心配をしたりするのだけれども、どうなのだろうか。そんなことを思いながら歩いたが、当時の阿佐ヶ谷田圃の様子を思い浮かべるすべもなく、緩やかにカーブする道には人家が続き、それも集合住宅が多く、ただただ東京近郊の都市化のすさまじさに、あらためて感じ入るばかりだった。

暗渠の印の逆U字型の車止め

JR阿佐ヶ谷駅までで

釣り堀とちゃんこ田中

 その家並が切れて少し開けたところに、釣り堀「寿々木園」があった。看板に1時間600円(さお、エサ込み)とある。年配の人に交じって家族連れや若いカップルでにぎわっていた。釣人井伏鱒二に似ている人はいるかな、と横目で探しながら通り過ぎると、商店が並ぶかわばた通りにぶつかる。この通りを横切った数軒先が、日本大学の田中理事長の奥さんが経営しているというちゃんこ屋だ。相撲番付と同じ書体で書かれた看板「たなか」の文字が飛び込んでくる。ここまでの相沢堀は、日大相撲部通りと言ってもいいぐらいかな。ちゃんこはまたの機会にして、かわばた通りを左に入って行くと阿佐ヶ谷駅西口高架下で、その手前にまた逆U字杭を見つけることができる。そこからJR中央線に沿って相沢堀は流れていくが、その先はもう阿佐ヶ谷駅、中杉通りを越えた駅ビルの向こう端から暗渠はさらにつづく。とりあえず、その場所を確認したところで我々取材班は、相沢堀探訪をここまでにして、荻窪に帰ることにした。ただ電車で帰るのではなく、井伏鱒二が歩いた同じ道で徒歩で行こうとしたのだが。
 彼が、「昭和二年の五月上旬、大体のところ荻窪へ転居することにして阿佐ヶ谷の駅から北口に出て、荻窪のほうに向けてぶらぶら歩いて行った。突きあたりの右手に鬱蒼と茂った天祖神社の森というスギの密林があって左手にある路傍の平屋に横光利一の表札があった。横光は流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われていた。」(新潮文庫版、18頁)と、書いてある道を歩いてみようという気を起こしたわけだ。しかし事前になにも調べずに、いきなりその道を歩こうとするのは無理である。まず行くべきところは図書館だった。

天祖神社と横光邸

 後日、『杉並町全図 昭和三年』『同 昭和六年』で調べてみると、六年版の地図に、駅近くに天祖神社の記載がある。現在の神明宮である。神明宮発行の「参拝の栞」には、主祭神は天照大御神で、平成2年、社号を天祖神社より創建時の神明宮へと複称と、記されていて、このお宮が以前、天祖神社とよばれていたことがわかった。

荻窪風土記の中の「天祖神社」 現在の「神明宮」

 森泰樹の『杉並風土記』には、「河北病院五十年の歩み」に書かれた中島善四郎の次の一文が紹介されている。「昭和の始めの頃の阿佐ヶ谷、特に四丁目(現在の北一丁目)を私は気に入っていた。……森に朝霧がかかると、湿地の芦叢ではヨシキリが鳴く。一日中鳴くのであった。土用になると暁方と夕方には相沢さんの杉森、天祖神社の杉森、世尊院の杉森、この三つの大杉森で一斉にヒグラシが泣き出す。……」と。鬱蒼と茂った天祖神社の森が当時、どんな様子だったのか、知ることができる。

神明宮の桜

 そこで横光利一の家は、上に引いた井伏の文章によれば、天祖神社の向かいに位置するように読めるが、通りを挟んで向かい合うというような位置関係ではなかった。『炉辺閑話―杉並郷土博物館だより 第27号』に、昭和2年、横光が住んでいたのは杉並町阿佐ヶ谷290番地(現・阿佐ヶ谷北3丁目)であった、と本橋宏己が書いている。三年版の地図で探すと、阿佐ヶ谷北3-5辺りである。その住いについて、『横光利一全集』(改造社)の月報に竹野長次が次のように綴っている。「私が横光君とお會ひしたのは昭和二年の夏の初頃であったとおぼえてゐる。その頃、君は阿佐ヶ谷に住んで居られた。驛を降りて北の方に進むと尼寺があって、杉の森があった。その森の緑に添ってなほ北に三四丁程行くと、左の方に真直ぐに伸びてゐる路があり、その路は『玉野』といふ地主の家のある森の中を横切っていた。その森を出はずれたところに、左側にやゝ南傾斜になった二百坪許りの宅地があり、そこに四十坪餘の家が建ててあった。それが横光君が新しい奥さんと楽しい夢を結ばれた思い出深い住居であった」。
 ついでに言うと、その住いを見つけるにあたっては、当時菊池寛家の書生をしていた那珂孝平が横光に頼まれて手伝っていた。那珂はその家について、「家賃五十園で五間のかなり大きな家を借りた。……横光さんはその年震災前に『日輪』『蠅』『マルクスの審判』などを発表して新進作家の地歩を固めていた。」と、思い出を語っている(『定本横光利一全集』月報6、河出書房新社)。
 あらためて地図を片手に阿佐ヶ谷駅北口から歩いてみた。駅前のバスターミナルを渡って、ビルの中の北口アーケード街を抜けて、やや左に曲がる道を北に向かった。この道は旧中杉通りだが、松山通りと街灯に表示されている。商店がずっと続いて賑やかだ。

法仙庵

 少し行くと、この通りに面した法仙庵というお寺につく。門前に掲示されている縁起には、「その初めは文久年間(1861‐63)阿佐谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり……作った共同墓地です。そして、墓地管理のため、江戸浅草・海雲寺(…)末寺・観音庵(…)より実山見道尼を初代庵主として請じて、開創したのが当庵です」(杉並教育委員会)、と説明されていた。まさに尼寺だ。さらに、「東側の塀に沿った道は、権現道と呼ばれた古道で練馬円光院子の権現(貫井5-7-3)におまいりに行く参詣道でした」と、書かれていた。商店街になっているこの道はかつての参詣道であったのだ。ちなみに、相沢堀はこの名主の相沢喜兵衛の名前である。法仙庵を過ぎて3、400メートル(1丁を約100メートルとすれば)行って、そのあたりで左に折れる真直ぐな道を探すと、ありました。多分、この道だろうと見当をつけて歩いて行くと、『玉野』の表札がかかったお屋敷があらわれ、その先の左手に竹野氏が書かれたような南傾斜の土地がある。横光邸のあとをしのぶことのできるような痕跡や記念碑らしきものは何もないので、確かめようもないが、多分ここがそうなのだろう。緩やかな傾斜を降りてみると、この宅地の裏手には大きな銀杏の木が一本そびえ立っている。樹齢何年かわからないが、その当時から生えていた木々の生き残りではないだろうか。井伏の歩く姿を見ていたかもしれない。井伏がたどった道はこの道でまず間違いないだろう。

横光邸へ向かう一本道

唐草模様のカーテンの明かり

 ところで、この時、井伏は横光の家に寄ることはなかった。二人はその頃、どういう付き合いをしていたのだろうか、そもそも付き合っていたのだろうか、という疑問がわいた。井伏と横光は早稲田大学文学部仏文学科の同級生、お互いに明治31年生まれの同い年だ。さらに言えば文学の師も佐藤春夫で同じであった。もし親しい間柄ならば、突然訪ねてもおかしくはないのではないかと思い、そのあたり少し調べてみた。
 横光は自分の学生時代について「富ノ澤麟太郎」という随筆で語っている。「彼(注・富ノ澤のこと)は私とは同じクラスであったが初め私は彼を少しも知らなかった。私の組には常に一室に二百人近くもゐたからだ。……私は滅多に自分から友人や人々を訪問したことはなかった。その頃私は外へさえ出歩いたこととてなく、学校でも人々と言葉を交えたことさえ殆どなかったにも拘わらず、彼の場合だけは私から彼の下宿へ突然に訪問した」(『文藝時代』、大正十四年五月号)と。二人は話が合って、これをきっかけにして親しい仲となるが、横光がこれでは、同級生でも俺、お前と気安く呼び合えるような関係になるのは、難しいだろうなと思われる。
 井伏も「富ノ澤麟太郎」(『新潮』、昭和44年1月号)と、同じ題で書いている。そこには、銭湯で友人から富ノ澤を、「佐藤さん(注:春夫のこと)のお弟子さんで、横光利一の親友だ」と、紹介される場面がある。『荻窪風土記』でも井伏、横光、そして二人の共通の友人富ノ澤が新大学令で同じクラスになった、と出てくるけれども、二つの「冨ノ澤麟太郎」も含めいずれにも、それぞれの関係が発展して三人一緒の付き合いが始まるようなことは書かれていない。(『荻窪風土記』の「荻窪(七賢人)」の章で、横光の一周忌の帰りに寄った魚金で、そこの細君のはなしとして、横光と富ノ澤の二人が登場する)。
 井伏が書いたものをいくつか読んでみると、どうも横光との関係は薄かったようにみられるが、そのなかでも彼の気持ちがよく表れていると思われるのが、「阿佐ヶ谷時代の横光氏のこと」と題した随筆の次の個所であろう。「私は阿佐ヶ谷時代の故人のことは幾らか知ってゐる。書斎の窓に唐草模様のカーテンが掛けてあった。どんなに夜ふけに通っても、そのカーテンのところにだけは明かりがさしてゐた。たいてい夜ふけて私がそこを通るのは、阿佐ヶ谷あたりで酒をのんで歩いて帰る場合が多かった。私は唐草模様のカーテンの明るみを見て『またブレーキがついてゐる』とよく思った。人にも実際たびたびそう云ったことである。ブレーキとは、こちらの堕落を防ぐブレーキの意味である。故人の存在は私には堕落を防ぐブレーキであった。そのころも私が堕落しきることができなかったのは、このブレーキが可成り効きめがあったやうに思はれる。」(『風雪』昭和23年4月号)
 また同じ時期に書かれた次の文章からも、彼の横光に対する気持ちを読み取ることができる。昭和23年8月、『新大阪』という新聞に、井伏は「菊池・横光・太宰を想う ――新盆を迎えて」題した一文を3日、4日、5日の3日間にわたって寄せている(横光は昭和22年12月、菊池は23年3月、太宰は同年6月に亡くなっている)。そこで横光のことを次のように書いて偲んでいる。「……したがって七年近くの間に、それも甲州でたった一度しか会わなかった計算になる。そんなに私と横光氏との個人的交渉は薄かったが、この人の存在は私にはいつも一つの目標となっていた。出処進退に何か清潔な感じがあって、孤高を念じている人とわたしは見ていたからである。自分ではそれを真似ようとはしなかったが、作家の態度として現今また得難いものと見て、その意味で目標にしていたのである。」井伏はまた、このようにも言っている。大正十二年に横光が長編『日輪』を発表して、大きな反響を呼び、「時めく花形作家になって、私の生涯のうちで、こんな華々しい文壇進出をした人を見ない。」(同文庫版、56頁)と。
 こうしてみれば、当時、文学青年であった井伏が、「流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われ」、すでに注文原稿を書いていた横光に、同級生意識などを持つことなかったろうし、また親しい付き合いをする仲でもなかったと思われる。阿佐ヶ谷の横光の家に昼間でも訪れることはなかった。ただ、この唐草模様の明かりが、井伏の心のなかで灯り続けていたのではないだろうか。
 井伏の阿佐ヶ谷駅から自宅にむかう足取りを確認できたことに満足して、天沼を抜けて彼の家のあった清水には向かわず、夏の陽に照らされた道を歩いて、荻窪駅に出た

文:鈴木英明
写真:澤田末吉

取材日:2018年3月26日

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