『松庵の本木』がブランド

 竹は私たちの日常生活にとって大変身近な存在だった。縄文時代の遺跡から竹製品が出土しているそうで、それほどの昔から私たち日本人は竹とともに暮らしてきた。様々なザル、カゴにはじまり竹竿、扇子、団扇、物差し、竹トンボ、竹馬などなど、身の回りにあった竹製品を次々に思い出すことができる。ところがいつの頃からか、身近にあった竹製品の姿が見えなくなってきた。竹トンボや竹馬のように子供の遊びの対象にすらならなくなったものや、台所にあったザル、衣装カゴのように日常の生活の中で使われなくなったものも多く、竹製品は、プラスティック製品の登場で消えていった。
本木文平さんは、竹職人の父利喜蔵さんと二代にわたって、杉並区松庵で竹にかかわる仕事をしてきた。今回は 本木さんに、竹をめぐるいろいろな話をお聞きしようと思う。

竹は孟宗竹と真竹

――本木さんはいくつのときから竹にかかわる仕事を始められたのですか
「学校出てすぐ、父親の手伝いということからはじめたから、18歳のときになるかな。昭和8年生まれだから、昭和26年ごろということになるね。主に、私は植木屋さんを相手に竹材を仕入れて売っていて、父が竹カゴの職人だった。その頃はね、松庵小学校はまだなくてその辺は、岸野さん、栗原さん、窪田さんの土地で、孟宗竹の藪だった。そのもう少し先に行ったところの栗原さんの土地には真竹が生えていた。その竹を譲ってもらってカゴを作っていた。細工に使うのはこの二種類。孟宗竹は太くて荒く割けるので、農家で使うかごに向いているの。豚カゴといって豚を入れられる大きなかごができた。高さが1m2,30、長さが2m、幅がこのくらいかな」、と広げた手の幅は1mぐらいだった。そのとき思い出したのが、江戸時代の罪人を入れて運ぶ唐丸カゴだけど、そんなものはもちろん作っていない。豚カゴより大きいのは、小学校の運動会で玉転がしに使う丸いカゴだそうだ。「真竹は細いけど粘りがあって細かい仕事に向いていた。小さいものは真竹でないとね、作れない。色の良さ、つやがあって、美しさは真竹だね。それに、垣根はいろいろあるけれど、あれは全部真竹。うちはザルも作ったけれど、カゴが専門、それでご飯を食べていた。」

竹は切り時が大事

 国内で生育する竹は600種ほどになるそうだが、本木さんは「あと竹では関西の黒竹と千葉の女竹。女竹は加工すると清水竹と名前が変わっちゃうの。女竹は密生しているんだけれども、今あんまり使い道ないでしょう」、と二つ、挙げてくれた。
竹は成長が早く、一日で、孟宗竹で119cm、真竹で121cm伸びたという記録がある(林野庁ホームページ、「竹のはなし」)。竹は伐採する時期が大事だと言う本木さんの話を聞いてみる。「切るのは一年で一遍だけ、虫が入るからね。切り時を切(セツ)というけれども、切がいいとか悪いとか言ってね、水が上がった後がいいの。竹が眠ると言ってね、冬眠に入った頃、そうねー、11月ぐらいだね。この時期がすごく大事で、時期さえ間違えなければ虫が入らない。春、藪に入って竹に生まれた年を書いておいて、切り時が来れば自分で切っちゃう。竹は一年で伸びちゃって、後は固まるだけだから、一番いいときは三年目だね。一年目のは新子というんだけれど、柔らかくて折れやすいから、カゴの縁をまくのに使うぐらい。四年、五年も経つと、つやが無くなってきて使えない。竹は面白いもんで、日当たりのよいところに生えているのは、こわくなってよくない。硬くなって割れてきちゃう」。

竹の虫を食べる

 いま昆虫食の話題を、雑誌などで見かけるが、本木さんはこの竹の虫を食べたことがあるそうだ。「竹に入る虫というのは、鉄砲虫と言ってたけど、食べるとうまいんだよね。虫に詳しくないけど、大きくなったらカミキリムシになるんじゃないかな」。ネットで「竹 害虫」と入れて、調べてみると、竹の害虫としてタケトラカミキリとベニカミキリが出てきた。白いイモムシのような幼虫からさなぎを経て、この成虫になると説明されていた。写真を見る限り、食べるのは幼虫の方だろう。味は確認していないが、ミャンマー料理では竹虫が調理されるようで、レストランのメニューの写真によく似ている。関心のある方はレストランで味わってみてはいかが。パンダは竹を食べますねと聞くと、「葉っぱだけじゃなくて固いところも食べるんだよね。何の栄養があるのかね。人間は竹の子を食べるけど、うまいのは孟宗竹ので、真竹のは苦いんだよね。だから食べない」。真竹は苦竹とも書かれ、ニガタケともよばれる。話を本題に戻そう。
――そうやって切った後、カゴになるまでの手順はどうなるのですか。竹は木材のように寝かしておくのですか。
「竹はたくさんは要らなくて必要な分だけ切ってくればいい。採り過ぎても無駄になるだけだ。この近所の竹藪で間に合っちゃう。一人の職人が使う量は知れてるからね。日陰に置いておくけども、あんまり時間がたっちゃっても使い物にならない。そこが木材と違うところだね。一年も二年も置いとくなんてことはしない。そこでカゴを作るとなると、一本の竹を割って、さらに四枚に裂く。これを竹ヒゴというけど、一本の竹から竹ヒゴが何十枚ととれるからね。何本も要らない。竹ヒゴは、一枚目から四枚目までそれぞれ特徴があって、一枚目の皮が一番良くて、だんだん固くなってくる。そして表、裏をちゃんと保っておかないといけない。表裏を逆にするとだめなの。それを編み込んでいってカゴにするわけだ。ここが職人の腕の見せ所だね。」
――できたカゴを買うのは地元松庵の農家ですか?
「そうね、松庵の農家が売り先で一般の家庭は、昔は使ったでしょうけど、そんなに使わないから。今カゴ製品はビニールになってしまったから、カゴ屋はもういないでしょ。農家もほとんどなくなってしまったから、カゴを買う人もいなくなった。カゴはね、雨ざらしにしたりしないで大事に使うと、何十年も持つの。そうすると売れる数も減って商売としてはうまくないけど、粗末に扱われるのを見るのはやだね」、と職人としての父の気持ちを代弁するかのようだった。

竹職人の利喜蔵さん

――少しお父さんのことをお聞きしたいのですが…。
「父は、大正の終わりころ小金井(栃木県)から松庵に来て、岸野さんに家を借りて職人としてスタートした。明治37(1904)年の生まれだから、21か2のときになるね。日が出る前から暗くなるまで、そして暗くなっても働いていた。一日三~四時間しか寝てなかったんじゃないかな。そうしないと食べていけなかった。その頃、職人の手間賃が日に一円五〇銭ぐらいだったんじゃないかな」。当時(大正15年)の喫茶店のコーヒーが一杯一〇銭、ビールが一本四二銭だった(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。「職人の稼ぎは少なかった。今にして思えばよく食べて行けたね。オヤジは大変だったろうと思うよ。だから子供を職人にしようとはしなかった。学問を身に付けろという考えで、学校に行かせてもらった。それで、私は竹を四枚にわることもできない。簡単そうに見えるだろうけど、素人には手を出せない。私はもっぱら竹材の仕入れと販売を受け持って、オヤジの手伝いをしたわけね」。

本木さんは、お父さんの修業時代の話を思い出して、職人になる苦労は並大抵のことではないと次のように話してくれた。「父は小学校を出ると修業に出たわけ。はじめは子守と雑巾がけだ。なかなか竹材や刃物に触らしてくれない。危ないしね。それからだんだんと簡単なことからやらせてくれる。親方が、よし、独立しろというまでが、修行だ。つらい仕事に耐えて一人前で、途中でやめていく人が多かった。奉公に十年はいかないと職人になれない。そんなこんなで一人前になっても、大変でしょ。仕事は、手間のカタマリみたいなもんだから、そんなに儲かるなんてことはないし、土をこねて茶碗作るにしても、名人という評判をとるまではもっと大変だ。大概の職人は、歯食いしばって頑張って、身体、使って来たから、歳とると歯がないの。自分が言うのも変だけど、立派な父親だったね。飲むのが好きだった。55のとき倒れて、働くのをやめた」。

――本木さんのお店は何という屋号でした?
「そんなのないの。店の名前はないし、看板もないの。『お前の作るかごはいいな』と言われるのが宣伝であり屋号なの。『松庵の本木』で通っていた。信用が大事で、すぐ壊れるような、いい加減なものを作ったら生活ができなくなっちゃうから、命懸けだ。ここで駄目になったからって、知らないところに行ったって食べていけないんだから、人との付き合いは大事だ。父は人から受けた恩は決して忘れなかった。竹を譲ってもらったりして、松庵の地主さんに大事にされたおかげで、食べてこれたので、地主さんには頭が上がんない」。恩の大切さを強調する本木さんは、「今の時代、恩や感謝という言葉が無くなっちゃった」、と悲しそうな表情だった。

――お父さんの時代、竹屋さんというのはどのくらいあったのですか?
「大体、村ごとにカゴ屋はあったね。久我山、高井戸、松庵、関前とかに一軒づつあった。ある程度離れてないと、商売はうまくいかないよね。数えたことはないけど、農家が百軒以上ないとやっていけないんじゃないかな。さっきも言ったようにカゴは大事に使えばもつから、そんなに売れるものじゃないしね。沢山作って、今度は市場に持って行っても買いたたかれちゃう。安くても仕方ないから売ってしまうんだよね。うちがこの辺りで最後のカゴ屋だった。この商売はね、ビニール製品がはびこってきたときにもう、駄目なんです、負けちゃったんです。それに跡継ぎもいないしね。見込みがないって、そう思っていたから、仲間が止めていくのを見ても寂しくなかった。私は仕入れ販売をしていたから何とかやってこれたけど、とうとう力尽きて竹の仕事を止めよう、と思ったのが平成20年頃だった」。

――本木さんはお父さんの手伝いをするかたわら、文房具店を始めたのですか?
「よく知ってますね」、と尋ねられたので、以前、『西荻春秋』に金田一先生に登場していただいた時、本木さんの文房具屋さんによく行った、という話を聞いたものですから、と答えると、嬉しそうに話を続けてくれた。「あ、そうなんですか。松庵小学校ができたときに始めたんですよ。私が高校出てすぐに始めたの。今の文房具屋と違って何でも売りました。よろず屋だね。運動足袋なんかも扱ったけど、運動会のときの一回限りのもんでしょう。ノート、鉛筆はもちろんだけども大きな紙とかね、いろいろあった」。松庵小学校は、開校は昭和27年4月だが、他の小学校に間借りしていて、松庵の現在地に校舎ができて移ったのは同年9月のことになる(同小学校同窓会ホームページ)。

話終わって、少し竹のうんちく

 私たちと長い付き合いの竹は、はじめに述べたようにいろんな形で利用されてきた。食用にされ、道具を作る材料にされ、そして竹材としてだけでなく皮も使われる。子供のころ、おやつ代わりに梅干しを皮で包んで、しゃぶっていた思い出を持つ方も多くいるのではないだろうか。ちまきは笹の葉で包んでいる。肉屋さんは肉を竹の皮で包んで売っていた。「お弁当のおにぎりもそうだった。竹には殺菌作用があるからね、食品関係にもいろいろと使われたね」、と本木さんは懐かしそうに話す。

 空気も殺菌されるのか、竹林に入ると、何か清々しさを感じることがある。気持ちが洗われるような気分である。スッと一風吹いてくると、思わず姿勢を正したくなるような、まさに「地上にするどく竹が生え」た、静謐な感じがする。大げさに言えば神社のような聖なる場所に来たと思わされるのだが、そんな経験はないだろうか。誰もが知っている『竹取物語』では、竹の中からかぐや姫が生まれるが、彼女はこの世の人ではない。月に帰るのだから月の人、つまり天にいる存在、聖人が竹林で生まれる。竹林はそういう場所だった。「竹林の七賢」は世俗に背を向けて、竹林に入って清談にふけった、という故事もある。そんなことをあれこれ想うと、松庵の竹藪が消えてしまったのは、恩や感謝の言葉がなくなってしまったという本木さんと同様、悲しく寂しい気持ちにさせられた。桜並木の保存を言うなら誰か竹藪の保存に乗り出してくれないかな、と思う。地震のときにも役に立つのだから。小学校の南側には梅の木がたくさん集まっていて、季節にはきれいに咲きそろう。近くに竹藪を復活させてくれれば、松庵の竹藪に梅となって縁起もいいのだけど…。
ところで竹はイネ科の植物だが、木なのか草なのか、どちらだろうか。専門家の間でも意見が分かれるそうである。異質なものをつないだという意味で、「木に竹を継いだような」という表現を使うことからすると、竹は木の仲間でないような気もする。『古今和歌集』に次の歌がある。「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの はしにわが身はなりぬべらなり」(雑歌下)。桓武天皇の女、高津内親王の歌と注が付けられているが、平安時代にすでにこのように思われていたのが面白い。これに対して現代、世界的に有名な竹博士である上田弘一郎京都大学名誉教授は次のように力説されていて、さらに面白いので紹介すると、「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ!」そうです。

 後日、養鶏家である窪田幸子さんの指摘によると、唐丸カゴの唐丸とは鶏の一品種だそうで、そもそも、その鶏を入れるかごを唐丸カゴと呼んだそうです。罪人を運ぶカゴは、形がそれに似ているのでその名がついたということでした。
 鶏と言えば伊藤若冲の名が浮かぶ。『若冲の描いた生き物たち』(小林忠ほか、学研プレス)のなかで、「紫陽花双鶏図」の解説に絶滅した大唐丸、現存する唐丸の話題が紹介されている。「…若冲の絵に描かれているもののなかには、大唐丸とおぼしきものが多く、絵画的価値だけでなく、家禽史の資料としても貴重なものといえる」とある。
文:鈴木英明
写真:澤田末吉
取材日:2018年5月28日
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