天草の夢を靴づくりに託して

それは路上の靴磨から始まりました

 注文靴の製作と靴と鞄を修理する天草製作所は、西荻の乙女ロードにあります。この店のオーナー、西森真二さんは熊本県天草生まれの47歳、青年のように若いです。彼は、福岡県の大学を卒業して東京にある広告代理店に就職しました。いつかは一国一城の主になりたいという夢を抱きながら10数年間、その代理店で営業の仕事に従事しましたが、「このままでよいのだろうか」ともやもやした気もちで日々過ごしていました。「もう一度、足元から自分を見つめ直したい。路上で靴磨をすれば、見えるものがあるかも知れない」と決意、それを実行に移しました。37歳の時でした。

出発地は中目黒駅のガード下、そして試練の時を迎えます

「会社を辞める際、社長からこれからどうするんだと尋ねられました。靴磨きをしたいと答えると、頭がおかしくなったのかと嘲笑されました。両親からも、どうしてそんなことするのかと心配されました」
「これまでの経歴やプライドを捨て、誰もが望まない路上での靴磨きをすることで、己の固定概念に囚われる殻から脱皮できるのではないか。その時は、まだ独身だったので決断できたのだと思います」
「場所は中目黒のガード下、怖さと恥ずかしさから逃れるように無我夢中で靴を磨いていました。そんなある日のこと、お客様からこの靴いいだろうと言われました。しかし、どこがよいのか判断がつきません」
「 そんなことも理解出来ないで、靴磨きは続けられないと考え、浅草にある靴の専門学校に通い始めました。靴の構造や革の種類や特性に関する知識が高まるにつれ、物づくりの面白さにのめり込んでいきました」
 

 

今の夢、New Yorkに店を開きたい

 


「店名を天草と命名したのは、故郷天草の名に恥じない仕事をして大好きな天草を大事にしたいという思いからです。オープンして3年目ですが、店の看板を見て熊本県出身のお客様が沢山来訪して下さいます」
 「帽子にもNew Yorkと書いてありますが、ボクってミーハーでNew Yorkが好きなんですよ。この店のデザインもNew Yorkにあるような店づくりにしたいとこだわりました。何時の日かNew Yorkに店を出したいという希望もあるので」
 「西荻には個性的な店が数多くあり、自分の店づくりのイメージにはピッタリな場所です。お客様から革細工や靴づくりの教室を開講して欲しいという声もあるので、この街ですることはまだまだあります」
 

 

 

 

お店は常に整理整頓、清潔をモットーに

 

「オーダー靴はかなり高価ですから、妥協や中途半端は許されません。一足作られてから2カ月後にもう一足頼むと来られるお客様もいます。本当に有難いと感謝しています」 店内には、靴注文と靴や鞄の修理受付窓口だけでなく、手縫いのペンケースや子ども靴などひとつひとつに西森流のこだわりを込めたレーザーグッズが整然と並んでいます。

 

 

 

 

 

 
「今スタッフは、妻の麻里を含めて4人で切り盛りしています。スタッフの中には、将来自分の店を持ちたいとの夢を持っている者もいます。自分と思いが一緒なので応援したいと思います。店は子供、スタッフは家族のようなもの。スタッフも店のコンセプトを理解して積極的に意見を言ってくれるので嬉しい、自分の店だから自分が正しいのではなくスタッフ全員の店でもあります、人も育てたい、チャンスには何時でも動くことが出来るように攻めの姿勢でいたいと思っています」

 

 

 

西森真二さんの夢は、まだまだ大きく広がります。西森さんの天草の青年のような気もちが震災で落胆している熊本の方々に届きますように。
天草製作所
天草 〒167-0053 東京都杉並区西荻南2-7-5
天草 Tel & Fax 03-3334-6822
天草 E-mail:info@amakusafactory.com
天草 URL:www.amakusafactory.com

 

西荻窪南口 アーケードを抜けて乙女ロード徒歩5分左側
営業時間:10時~20時(日曜日、祝日~19時) 定休日:水曜日
 

 

文章 冨澤信浩
写真 澤田末吉
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。
著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

続きを読む 天草の夢を靴づくりに託して

緩やかな時間が流れるジーンズショップ 「オークランド」

西荻窪駅の南口を出て、ピンクの象さんで知られる仲通り商店街に入る。その右手、象さんの横にあるのがオークランドである。
 
店に入ると心地よい音楽が流れ、どこかリラックスした雰囲気が漂う。カジュアルな衣料と共にジェームス ディーンのポスター、古時計、そしてラグビーボールが目に止まる。
 
店主は二代目の多田裕昭さん。裕昭さんの父、貞蔵(ていぞう)さんがアメリカの中古衣料を扱う店をここで始めた。昭和26年のことである。裕昭さんが生まれた年だ。今年で65年になる。
 
貞蔵さんは山形から上京し、苦学して蒲田の工業高校を卒業した後、東京の会社に職を得た。そして戦後すぐ、貞蔵さんの兄が呉服屋をやっていた西荻窪の今の場所に移り住み、商売を始めた。

アメリカの中古衣料が出発点。お店は繁盛しました

「戦争が終わってあまり着るものがなかった時代だったんですね。アメリカの中古衣料をこっちへ送ってきて、洗い場に行って洗ったり、プレスしたり、直したりしてお店に出していました。今では中古屋さんは多いですけど、その頃はそんなになかったのでお店は繁盛していました」
 
朝は9時くらいから夜は11時まで働き、お店を閉めてからも値札をつけたりして、夜中の1時くらいまで裕昭さんのお母さんたちは働いたそうである。
 
「西荻の店をやっていた私が小さかった頃、バザーといって宇都宮だとか日本各地の体育館にトラックでいろいろな品物を運んでは売っていました。品物がない時代だから物凄く売れた」
 
「西荻の店では従業員含めて12人くらい寝泊まりしていました。開店して間もない頃、オープンリールと言ってテープデッキなんて珍しかった時代、大きなテープに案内を録音してトラックで街を廻って、体育館でバザーをやってたんですね。だから、ちっちゃい頃はほとんど家に居なかった。帰ってくるといろいろな玩具をいっぱい買ってきてくれましたね。相当なワンマン社長でしたが、涙もろくて熱い人でした」
 
西荻の店が好評で、山手線の大塚の駅前と、荻窪(現在のタウンセブンの地下に当たる場所)と合わせて三軒の店を構えた。また別荘を千葉の御宿、そして山形の蔵王のそばに持ち、夏は御宿、冬は蔵王と、裕昭さんは夏も冬も真っ黒になるほど色々と連れて行ってもらったという。
 

父は武道が好きでした

「父はもともと剣道とか柔道など武道が大好きでした。高井戸第四小学校というところに僕達(裕昭さんは姉、裕昭さん、妹、弟の四人兄弟)は行ってたんですが、そこでPTAの会長に就いたのがきっかけとなり、剣道教室(尚武会)を始めました。それが今年で50周年を迎え、今では大会で優勝するようになりました。居合は段を持っていて、明治大学(白さぎ会)で教えていました」

昭和48年、ジーンズだけを扱うお店に。そして一番忙しい時期を迎える

「昭和48年、僕が学校を出たくらいからジーンズだけのお店に変えました。その頃はエドウィンとかビッグジョンとか日本のメーカーがどんどん出始めた時です。昔、エドウィンの常見さんという社長さんとお友達で、一緒にやっていた関係でジーンズだけにしたのです。その当時はね、ジーンズブームということもあり、大学生がアルバイトをさせて欲しいと随分来てましたね。この店もアルバイトが沢山いました。大塚の店も含めると、一番多い時には20人くらいいたのかな」
 
「僕が大学を出る頃はジーンズが日本中流行っていました。丁度その頃、ベトナム戦争が終わってアメ横で軍隊の払い下げのカーキ色のジャケットを売っていました。アメリカで安く仕入れて日本に持ってくると、ものすごく売れたんです。いろんな階級章が付いていたりして。それがその当時の反戦運動の象徴でしたから、多くの人が買いに来ました」

自然な流れで家業を継ぐことに

「僕は教職をとって先生になろうと思っていました。だけど、当時学校に行っても、教室に全学連が入ってきて授業が中止になり、ちゃんとレポートを提出すれば教職課程も取れたんだろうけど、お店が忙しいので手伝わなきゃどうにもならない状況でした。そうして自然に家業に携わるようになりました。大塚の店は人が少なかったので大変でした。カレーうどんが好きで出前を頼んだのですが、忙しくて食べる暇がない。夕方にやっと箸を入れると、そのままカレーうどんが持ち上がったということがありました」
 
「昭和57年に、新婚旅行でニュージーランドに行きました。ラグビーがとても好きだったので、オールブラックスの国に行ってみたかったのです。その時にオークランドという町に行きました。とても綺麗な街でした。その名前が今の屋号の由来です。アルファベットの木工文字を買ってきて、それとニュージーランドの国鳥であるキーウィーを元に自分でアレンジしました」
 
「オークランドと命名するまではつるや貿易という名前でした。昔ジーンズのお店はみんな何々貿易っていう名前を付けてたんですよね。うちも法人名としては残っています。屋号はオークランド。昔僕が小さい時はアメリカ屋という屋号を使ってました。アメリカ屋は昔、ジーンズショップの総称みたいな感じでした」
 
「子供の頃、小学校にジーンズを履いていったら、ジーパンは普通の洋服よりも格下のイメージだったんでしょうね。子供心にちょっと馬鹿にされていたのかなという気がしました。酷いいじめのようなものではなかったですが、アメリカの作業服を売っているお店は、普通の衣料品店より格が下といったイメージがあったのでしょう」

ジーンズもトップ3の時代から新しい時代へ

「昭和48年、一番忙しい時期を過ぎ、それからいろんなメーカーがジーンズを売り始めました。40年を過ぎ、ユニクロやギャップというような大型店に替わっていった。現在、うちは日本で初めて国産ジーンズを作った岡山のメーカーKappaジーンズを扱っています。シリアルナンバー入りで、職人がひとつひとつ手作りで縫製した、こだわりのジーンズです」
 
ジーンズ以外で主に扱っているのは、男性はUniversity of Oxford、女性はブルーベルというブランドだ。これまでいろいろなブランドを扱ってきたが、この二つのブランドが西荻窪の顧客にぴたりとはまり、喜ばれているそうだ。

父にはいつもお説教をされていた気がする

「うちの父は苦労して商売をしてきた人だからいつも僕が言われたのは、お前は真剣に生きてないって、その言葉はちょっと違うかもしれないけど、なんか人生をなめているみたいなことをいつも言っていました。いつもお説教をされたような気がします。とにかくお説教が大好きでした。まあ、それだけ心配だったんだろうと思います」
 
西荻窪はみんなゆったり、のんびりしているように思うと裕昭さん。「阿佐ヶ谷辺りと比べると、やる気があんのと言われちゃうけど、その代表だね。私は」と笑う。長く続く秘訣はと訊くと「うーん、なんだろう、流されるままにかな」
 
この店の何処か緩やかな時間が流れる、リラックスできる雰囲気の理由がわかったような気がした。
 

ジーンズショップ オークランド
住所:東京都杉並区西荻南3−10−10
電話:03-3333-6032
営業時間:12:00-22:00
定休日:元日のみ
JR西荻窪南口 仲通り商店街
 
文章 小野由美子
写真 小野英夫
 
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん

縁ある同士、必ずどこかで結ばれる

ここに一冊の本がある。昭和41年に読売新聞社から刊行された写真集「人間国宝」。昭和23年に写真師により結成された新生写真協会メンバーが撮影した写真だ。
 
人形浄瑠璃・文楽太夫、十世・豊竹若太夫の楽屋から退席するさりげない姿。人形浄瑠璃・文楽人形、二世・桐竹紋十郎の緊張感漲る舞台と楽屋での一枚、自宅で撮影した人形を動かす写真は斜逆光線を生かした写真師ならではの傑作。京都で撮影した染織・有職織物・羅の喜田川平朗の品格溢れる肖像。滅びゆく玉藍のユカタを墨田区の自宅で切なく制作する染色・長板中形の清水幸太郎。文京区にある自宅工房の空気を巧みに表現した蒔絵師の松田権六の仕事場風景。
 

上段左と中央は清水幸太郎、右は桐竹紋十郎 下段左から豊竹若太夫、松田権六、喜田川平朗(読売新聞社発行『人間国宝』より)

これらは新生写真協会メンバーのひとりで、昭和七年に西荻窪で写真館を開業した故・高木文二さんの作品である。
写真師、あまり聞きなれない言葉だが、写真館のカメラマンをそう呼んでいたのである。今ではデジタルカメラで誰もが簡単に写真を撮ることが出来るが、フィルムを使うアナログカメラ時代には、写すこと自体が至難の技であった。上流階級から庶民に至るまで、写真館での記念写真は人生の大切な記録として浸透して行ったのである。
西荻春秋の取材先を探すため、いつものようにスタッフは西荻窪の街をぶらりぶらりと歩いていた。すると、スタッフのひとりで生粋の杉並っ子の窪田幸子さんが住宅玄関先で婦人と話を始めた。その住宅のある場所には昔写真館があった。窪田さんは写真を撮ってもらった思い出があり、婦人は、そこの写真師の高木文二さんの子息、昇さんに嫁いできた都さんだったのだ。
窪田さんには子供の頃から成人式に至るまで、高木フォトスタジオで記念写真を撮って貰った思い出があった。社会人になってからは、言葉を交わす機会はなかったが都さんは憶えていてくれたのだ。写真師は、自分で撮った写真は全て記憶しているという。当時、都さんは顧客の髪や衣服を整える手伝いをしていたのだが、義父の文二さんを尊敬していたこともあり、懸命に仕事をしていたので写真師に負けず劣らず鮮明に憶えていたのだろう。

写真館のある風景

昭和12年、昇さんは文二さんと輝子さんの長男として生まれた。幼少期、彼は祖母にとりわけ可愛がられた。幼稚園通いはいつも付き添い、怪我をしないようにと50cmの高さから飛び降りることもさせないほどだった。そんな祖母が口癖のように昇少年に伝えた言葉があった。それは、「親の職業から離れたら駄目」であった。

小学校は近くの高井戸第四小学校に通った。しかし、昭和19年、 空襲で校舎が焼失、生徒達は高井戸第二小学校と桃井第三小学校に別れて授業を受ける混乱期を迎えた。だが、有難いことにスタジオと家は焼けずに残った。
高校は日大二高へ、クラブ活動は美術部に参加した。美術部主任であった日本画家・上林教諭から構図や空間表現を学び、創作に関心を抱くきっかけとなった。そして、大学は日本大学芸術学部写真学科に進んだ。これには文二さんの大きな期待が込められていた。昇さんを「写真館の跡継ぎにしたい」との強い思いがあったからだ。当時の教授陣は少数ではあったが、報道写真家の草分け、渡辺義雄、写真芸術論や写真史の第一人者、金丸重嶺など、優れた指導者が名を連ねていた。
ある日、昇さんは渡辺教授に「どうすればよいのですか」とノウハウについて質問したことがあった。すると教授は「僕が言うことじゃないから、盗んで上に行きなさい」と答えた。先輩の後姿を見て学ぶ時代だった。
写真界は木村伊兵衛と土門拳の全盛期、そしてアメリカ広告写真が流行。写真家は、若者にとって一躍憧れの職業となった。同期生に日本写真家協会会員で作家活動を現在も続ける立木寛彦(たつきひろひこ)がいた。彼の実家も写真館であったが、作品づくりがしたくて創作の道を歩んだ。昇さんも、世に認められてからも助手にシャッターを押させない土門拳の姿勢に尊敬の念を抱いていたが、写真家への道を目指すことはなかった。
大学を卒業すると社会勉強のため、浜松町の広告写真スタジオで修行した。流行最先端の職場ではあったが、父の仕事を継ぐ覚悟に迷いはなかった。創作活動は休日に建築写真を撮りに出かけるのみであった。
助手として下準備をし、あとは文二さんがシャッターを押せばよい状態にセットアップするのが、昇さんの仕事だった。その他に西荻窪駅前の「こけしや」や教会での結婚式撮影も請負、多忙な毎日を過ごしていた。
ある日、縁あって都さんと出会い、結婚することになった。父と親しかった写真館の草分け、写真師で肖像写真家でもある吉川富三が二人を祝福して婚礼写真を撮ってくれた。吉川は自然なライティングを駆使する写真師として知られていた。

 

左は祖母と両親の遺影を掲げる昇さん、右は昇さんと都さん


吉川との出会いは、昇さんの写真人生に大きな影響を与えた。写真師は創作写真家に比べると、芸術家としての評価が恵まれない傾向にあった。吉川は著名人の肖像を写真集にすることで、地位を高めようと努めた。昇さんは、建築を主題に独自性を強調しながら、写真館組合が発行する雑誌「JPC」に掲載したり、毎年開催される日本文化協会全国展・関東写真家協会展に出品したりと、大いに吉川からの感化を受けた。
文二さんは、第68代総理大臣・大平正芳、20代の頃の俳優・森繁久弥、子役時代の女優・松島トモ子、久我山に在住していた洋画家・東郷青児、松庵に在住していた文学者・金田一京助、女優・京塚昌子などの肖像を残している。杉並区高井戸に住んでいた歌人の木俣修は、文二さんの作品を「これは本当の芸術だ」と称賛した。
昇さんも、三笠宮崇仁親王、日本経済団体連合会第4代目会長・土光敏夫などを撮影している。土光は「撮った写真を全部見せろ」という。カメラマンは、よい写真を選んでプリントして渡すのが常識だ。安定した実力がないと要望に従うのは難しい。昇さんは覚悟を決めて見せることにした。土光は「この写真気に入ったから買う」と言う。売る訳にいかないから、嬉しさもあって寄贈したという。都さんは「私、土光さん大好き、ぴしっと筋が通っていたから」と褒め讃える。よい写真には人柄まで写るものなのだ。写真師二代、見事な仕事ぶりである。

上段左から東郷青児、松島トモ子、金田一京助 下段左から京塚昌子、土光敏夫、森繁久弥

(杉並区立郷土博物館所蔵)

写真館が消えた日、時代も変わった

昇さんと都さんは、建築を学んだ長女・朋美さんから古くなった家の再建提案を受けた。昇さんは、文二さんの写真館を守りたい一心で抵抗してきた。しかし、東日本大震災の揺れは尋常なものではなかった。「お母さん、絶対危ないからお父さんを説得して」と娘さんから懇願された。平成25年、ついに意見を受け入れた。

昇さんの気もちを察した長男・昭彦さんから「せっかくだから、お父さんの写真を飾ったら」と居間にギャラリー、玄関にショーウインドーが設けられた。ショーウインドーの写真はスタジオを知る者には懐かしく、知らない者には謎めいたものとなった。

玄関先のショーウインドーと居間のギャラリー


 「昇さんは手間の掛らない頑固者、学生時代からずっとお父さんに尽くしてきました。一方で自分の世界も遠慮しながら貫いてきた。昇さんにとっても、スタジオが無くなれば縛られることなく、好きな写真を自由に撮ることが出来るのでは、私は賛成、よかったと思います」と都さんは語る。
最近のカメラ事情について「デジカメは簡単、数打ちゃ当たるだろうって、趣味で写真団体に参加する友人が言うけど、作品を見ると数ある内の一枚だってすぐわかる。僕の考えとは根本的に違う。彼には何も言わないけどね、今は写真サークルの6割が女性で、誰でも簡単に写せることを望むから」と昇さん。
 「昇さんの気もちはわかるけど、年取ってきた人が楽しむという考え方もあるでしょう。それもありかなって思うの。手伝いだけで写すことをしない私から見ると、極めるという以前に下手だからと諦めていたことが可能になって、写真ってこんなに面白いものかと再認識したのよ」と都さん。
誰もが写せるようになると、写真館の仕事も先細りとなる。親の職業を子が継承するのも難しい時代になった。娘の朋美さんは写真センスがあり、機械にも強いから跡継ぎには最適な人材。しかし、彼女は建築を学び写真から離れた。昇さんが興味を抱いた建造物への道、これもある意味で親子継承なのかも知れない。

記録の行方

スタジオのない生活は、昇さんを変えていった。雑誌投稿、写真展出品、コンテスト出品など、より意欲的に創作に取り組むようになった。雑誌では「最高賞の総理大臣賞受賞が目標」と積極発言をする一方、「賞より新しいものを撮ることが出来たら幸せ」と謙虚さも覗かせる。「体力と感性がある限り作品づくりをしたい。僕は、写真を撮りながら棺桶に入るのが理想」と語る。
写真を撮るには肺と腹筋を鍛えることが大切と体力づくりに努める。昇さんは、若い頃から『弓道』をしていた。しかし、父に代わって仕事をしている内に筋肉が衰え、弓を引くことが出来なくなってしまった。それからは、弓に通ずる礼儀作法で親しみやすい『スポーツ吹き矢』にチャレンジすることにした。現在キャリア2年目を迎える。また、時間があれば長靴を履いて今川まで30分ほど自転車を走らせ、区民農園で畑仕事をする。食べきれないほどの収穫があるという。
文二さんが亡くなった時、杉並区郷土博物館に肖像写真の一部を寄贈したことがあった。写真館閉鎖に伴って、30人分のポートレート、計58点の写真と機材一式を改めて贈呈することにした。
写真記録というと、誰でも「動の記録」である報道写真を思い浮かべる。しかし、文二さんと昇さんの仕事は「静の記録」、さりげない毎日の積み重ねが百年後に偉大な記録となる好例だろう。
これから杉並区郷土博物館で作品に触れるたび、ベレー帽をかぶり、洋服を茶で統一したおしゃれな文二さん、律儀な頑固者、そして謙遜の人、昇さん、親子写真師二代の姿が思い浮かぶに違いない。

 

文: 奥村森
写真: 高木文二、高木昇、澤田末吉

ー 肖像権許諾にご尽力頂いた方々
高木昇&都夫妻、杉並区郷土博物館、金田一秀穂様、森繁建様、松島トモ子事務所様、ギャラリー・コンティーナ様、橘学苑様。京塚昌子さんに関しては、ご遺族の所在不明のため肖像権許可なしに掲載しております。
肖像権者の方がご覧になりましたら、是非ご連絡下さい。
ー 参考資料 ー
読売新聞社 写真集「人間国宝」
取材日 2016年9月16日
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。
著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

杉並区高円寺在住イタリア人

ジョバンニ・ピリアルヴ(Giovanni Piliarvu)さん

 イタリア半島西方の地中海に浮かぶサルデーニャ(Sardegna)島、人口165万人、面積はシチリア島に次いで地中海で2番目に大きな島である。海に囲まれた豊かな自然と古い建造物が残る歴史ある町並みが魅力だ。これから紹介するジョバンニさんは、そんな環境で生まれ育った。
 
 イタリア人というと、陽気でお喋りのイメージがステレオタイプ(先入観)として定着している。だが、彼にそれは当てはまらない。穏やかで落ち着いた紳士だから。言語も文化も異なる国に長く住み続けるのは簡単なことではない。インタビューに応じるジョバンニさんから、柔軟で協調性に富んだ人柄を感じた。「この人だから、10年もの長きに渡って日本在住が出来たのだ」その秘密の一部を垣間見た気がした。
 
 ジョバンニさんは、島から比較的近いイタリア・ルネサンスの拠点、フィレンツェ(Firenze)にあるフィレンツェ大学に入学した。そして、教育学と言語学を専攻した。「失礼かも知れないけれど、最初は日本に全然興味がなかった。ドイツ語やイタリア語を話す人は多いから、珍しい言葉を勉強したいと思った。だから日本語を専攻した」と振り返る。
 
 日本語の難しさにクラスメイトが次々と脱落していく。ジョバンニさんは勉学に励み、見事修士課程を取得、卒業旅行で初めて日本を訪れた。日本については、滞在経験のある同級生や日本の友人から話を聞いていたが、初めての日本で強く印象に残ったのは風景だった。
 
 秋の紅葉は素直に美しかった。だが、町の空が見えないほど張り巡らされた電線には驚かされた。イタリアでは景観維持のため規制が厳しくありえない光景だからだ。
 
 卒業後は、フィレンツェで働きたいと望んだが仕事がなく、ビジネスチャンスを広げるために貿易を学ぼうとベルギーを訪れた。その後、貿易研修のために再来日、以後10年、日本に住むことになった。
 
 ジョバンニさんは、イタリア語教師の傍ら、写真家としても活動している。おじいさんがカメラ屋を営んでいたので、小さい頃からカメラに触れる機会があった。学生時代はミュージカル歌手をしていたこともあったが、東京では音楽活動は難しいので、代わりに写真を撮っているという。
 
 彼の写真のモチーフは日本とサルデーニャ島の風景や祭りで、ギャラリーでの展覧会も開催している。日本では、徳島の『阿波踊り』や越中八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた民謡行事『おわら風の盆』などを写真に収め、阿波踊り協会等に写真提供もしている。
 
 サルデーニャ島の祭りはどのようなものか聞くと、「長くなるよ」と笑いながら嬉しそうに語ってくれた。サルデーニャ島では、1年に約120もの祭りが行われる。自然と生活が密接に関わるこの島では、祭りも自然に関わるものが多く、その点では日本の神道にも共通点が見られるという。
 
 昔は、食事も仕事も自然の影響を大きく受けたため、自然崇拝や豊作祈願をしたり、祈りのために生きている人を捧げたりしたそうだ。現在では実際に犠牲は行わずに模倣により伝統を受け継いでいる。中世、サルデーニャ島は4つの地域に分かれていた時代があった。祭りにもその影響が見られ、同じ島内でも30キロメートルも離れれば地域によって全く異なった祭りが行われる。
 
 騎馬行列があったり、日本の『なまはげ』のような格好をしたり、特色は様々だ。自然への祈りや行事内容など、日本の伝統的な祭りとの共通点も見られ、遠く離れた地でも昔の人々の生活は似ていたことに驚く。ジョバンニさんは、日本サルデーニャ協会の運営に参加しており、こうした祭りなどを中心に、写真を通してサルデーニャ島の文化や歴史を日本に伝えている。
 
 また、5年ほど前に日本の旅行会社から相談を受けたのをきっかけに、ジョバンニさんはサルデーニャ島への旅行案内も行っている。サルデーニャ島は、リゾート地として海を見に行きたいという人が多いけれど、島の良さは内陸にある。自然保護環境に優れ、他の場所で失われてしまったものも残っている。
 
 シチリア島では、他民族が移り住んで新しい建造物がたくさん建てられたが、サルデーニャ島には移民が少なく、文化にあまり変化が起きなかった。郊外に3000年前の遺跡がいっぱい存在する。今でも昔と変わらぬ時間がゆったりと流れる。
 
「サルデーニャの人々は自分のアイデンティティを持っているから、現在でも羊飼いがいて、歴史や伝統を大切に守り続けている。それがサルデーニャの魅力、島を案内して人々が感動するのを見るのが嬉しい」とジョバンニさんは誇らしげに語る。イタリアを離れ、いろいろな異文化に接してきた彼の言葉には説得力がある。
 
「他国の文化や習慣、考え方で合わないことがあっても、『ありえない』と拒否するのではなく、合わせることも必要。僕は、ここではお客さんだから」郷に入っては郷に従えの故事を実行している。
 
 そんな彼だが、芸術家としての一面も顔を覗かせる。「展覧会を開催すると、機材は何を使っているかと尋ねる人が多い。僕は、もっと作品を見て欲しいと思っている」この発言はカメラ機材などの道具よりも、写真作品、つまり創作を大切にしている証である。
 
 また、日本国内を旅行する時は、ホテルよりも民宿を使うようにしているという。「自分の家族のように迎え、もてなしてくれる。ホテルの『お客様は神様』みたいな対応はあまり好きじゃない」人との出会いを大切にする姿勢も強く感じた。
 
 現在、高円寺に住んでいるジョバンニさん。「杉並の魅力は、下町の感じが残っていること。高い建物が少なく、生き生きとしたエリア。あと、高円寺に住んでから、阿波踊りにはまった。お陰様で、毎年阿波踊りの撮影をさせてもらっているから、夏は灼熱の東京に居てもすごく楽しい。」
 
「サルデーニャは一応イタリアだけど、文化と歴史が違うから、日本でいう沖縄みたいな島」現在はイタリアに属しているが、イタリア半島から離れているため、前述した異なる文化と歴史を作り上げてきた。言語も独自のサルデーニャ語が存在する。現世代のジョバンニさんはイタリア語で育ったが、サルデーニャ語も理解できる。島の高齢者は、今でもサルデーニャ語を使い、イタリア語が分からない人もいる。
 
 そのためか、日本のテレビ局から頼まれ、サルデーニャ語を日本語に翻訳する機会も増えた。今後の夢について訊ねると、「教えるのが好きだから、イタリア語を教えながら写真の仕事も続けることが出来ればと考えている」と答える。
 
「日本に出身地、サルデーニャのサッサリという町などを紹介する活動をしたことがあった。今後は、日本をイタリアの大都市で紹介する活動もしたい」異なる環境で柔軟に人々と真摯に対応するジョバンニさん、更なる活躍を期待したい。
 
文:大久保苗実
写真:澤田末吉
 
取材日:2017年3月25日
 
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

金田一秀穂先生の西荻今昔

松庵生まれの国語学者金田一先生に西荻窪についてお話を伺うことにした。わざわざ松庵舎にお出で頂けるということなので、待ち合わせはJR西荻窪駅の改札口となった。失礼のないようにと約束の時間より早めに着いた私たちの前に、先生はすぐに現れた。先生は「アリャ」と思われたそうだが、もちろん早く来てよかった、と安心している私たちが気付くわけはない。早速、松庵舎に向かった。途中の道は先生が子供時代に駆け回った場所だ。
住宅街を歩いていると、「この付近には大きな家があったけどみな小さな家に分けられちゃったなー。この近くに大きな桜の木があったんですけど、どうなったんですかね?」、と聞かれて、落ち葉や虫の手入れが大変で伐採されてしまった、と言う私たちの返事に残念そうだった。歩きながらいろんなことが思い出されるようだった。先生がひときわ懐かしそうにみえたのは、松庵舎の玄関前で五日市街道を挟んだ斜め向かいの三軒長屋を見た時だった。「あそこに竹屋さんがあって、本木さんというお店だったけど、文房具も売ってたんですよ。よく買いに行ったな」。お気に入りのお店だったそうだ。今は建物だけが残る。この近くにはもう一軒、松庵堂という文具屋さんもあったが、今はそこもない。

松庵と自転車

先生は昭和28(1953)年5月の生まれ。同35年に松庵小学校に入学した。中学は西宮中学校。この小学校の校歌が父上の春彦先生の作詞だそうで、この校歌ができるまでの興味深い話をお姉さんの美奈子さんが、同小学校の同窓会で話されているので関心のある方はこちらのサイトを見て下さい。
「小学2年生、3年生のとき入院していたことがあって、健康な子供ではなかったけれども自転車で駆けずり回っていました。よその畑を通り抜けても誰に文句を言われるわけでもなく、のんびりしてましたね。自動車も危ないことなくて、道が舗装されていないから土ぼこりがすごかった。それが、ある日五日市街道が舗装されてびっくりして、家の前まで舗装されて愕然とした」。

「隣の家が辻さんち(現在の一欅庵)で、うちと庭続きだったからよく遊びに行ったけど、そこの大きな防空壕で遊んで怒られたことがあった。危ないから大人は止めるでしょうけど……。そういえば中央線が土手の上を走っていたころ、線路にくぎを置いて叱られたこともありましたね。まさか電車が止まるとは思ってもいなかった」。そのころ、防空壕に入って探検ごっこをしたり、線路にくぎを置いたりする遊びはスリルがあって、子供たちの好きな遊びだった。恐ければ恐いほど思い出は鮮明だ。
「小学校の通学区域のそとにいくことは恐かったですね。武蔵野市との境の道は越えることはほとんどなかったです。心理的なバリアーみたいなのがあったのかな。ですから神社の縁日でも松庵稲荷神社はいったけれども、春日神社はちょっと遠いし、区域外の吉祥寺の武蔵野八幡宮にはいかなかった。久我山にもあったけど何か違う、怖いところでしたよ。不良がいてお金を取られるようなね。そういう危ないところでした。中央線の線路の向こうにあった薄気味の悪い道、知ってるでしょう?」。突然聞かれた。初めは聞いている私たちの誰も、どの道のことかわからなかった。

薄気味の悪い道と沼

「線路の向こうでさ、行き止まりの道でそこがロータリーになってるの。ただの路地なんだけど子供心にわけのわかんないみちで、誰かの屋敷跡かもしれないけど、幽霊が出そうな感じで気味悪かった。今のうち写真撮っておいた方がいいよ。なくなっちゃうよ」、と言われて翌日、現場に出かけてみた。確かに子供だったらそんな感じの道ではあった。ここは松庵小学校の通学区域の北の端になるところでもある。念のため法務局で調べてみると、ロータリーの歴史は詳しくはわからなかったが、明治後期、松庵村の農家であった窪田太左衛門が畑の一部を姉の夫に譲ったものだとわかった。お勧めに従って写真は撮っておいた。
昭和30年代は屋敷跡ばかりでなく空き地や原っぱ、池などがあちこちにあって、子供たちの格好の遊び場だった。「池といえば、この道の近くだけど、吉祥女子高に行く途中に得体のしれない沼があったの。自然に湧いている池かどうかわからないけど。荻窪辺りは湧水が多くて、よそと違って水がおいしいといわれるんだよね。裏手に大きな池のあるお寺もあったんだけど、この間Google Earthで見てみたけど分かんなかったな」。この沼は現在の地図には載っていないので、杉並区立郷土博物館で調べると『杉並の川と橋』(研究紀要別冊、同博物館発行)に収められている論文「杉並の川と水源」(久保田恵政著)に次のように書かれていた。「鉄道施設用土採取跡地の池は、高円寺、阿佐ヶ谷の他に、西荻窪駅の西に線路を挟んで二ヵ所あった」。そのひとつが松庵窪(女窪)で場所が西荻北3-9と記されていて、先生の話している辺りになる。これは地元の昔をよく知る人で、甲武鉄道(現中央線)を走らせる土手を作るのに、必要な土砂を採った後のくぼみに水が溜まった池だ、と話す人もいて、おそらく湧き水ではないのだろう。

松庵窪(女窪)付近から線路に向かって下っている坂と本田東公園

ただ、現地に行ってみると、この辺りが吉祥寺方向に下がっていて、ここよりさらに低くなっている場所を見つけることができる。線路沿いの北側にある本田東公園だ。杉並区と武蔵野市との境界の道をあいだにして市側にある。ここが、雨が降るとよく水が溜まり、池のようだったという地元の人の話があって、あるいはこちらが「得体のしれない沼」だったのかもしれない。

恐い事件と懐かしい店々

「怖い話だけど、松庵稲荷のそばの交番でお巡りさんがナタか斧で殺されるという事件があったんですよ。犯人が捕まらなかった」。これも調べてみると、昭和41年7月27日未明の事件で、27日付の読売新聞朝刊に「交番の巡査殺さる」という5段見出しの記事で第一報が、同日の夕刊で詳細が報じられている。その交番は今はない。先生が13歳の少年の時になる。
なにやら漫画の『金田一少年の事件簿』みたいな話題になったところで、金田一姓の読み方について耕助探偵にも登場してもらう。いまでこそ金田一姓はほとんどの人が正しく「キンダイチ」と読めるだろう。しかし昔はそうでなかったと、春彦先生は嘆かれていて、「戦後は、金田一耕助探偵のはでな活躍で、キンダイチという苗字をはじめから読んで下さる方がふえたのはありがたいことで、作者の横溝正史さんに千金を積んでも感謝したい気持である」、と『出会いさまざま』(金田一春彦著作集第12巻)に書かれている。余談でした。
「仲通りに、駅へ行く左側に豆腐屋さんがあって、向かいがこんにゃく屋さんでした。いつごろか、豆腐屋さんが火事を出して、それが生まれて初めて見た火事でしたね。梅村質店の子が同級生でした。そばにある床屋の佐藤さんで、雑誌『少年』の鉄人28号や鉄腕アトム、ストップ兄ちゃんなどの漫画を読んだりしてました」。
「昔のことは言い出したら、ああ、キリがない。時間がいくらあっても終わらないですね。『キングコング対ゴジラ』を見に行った映画館・西荻セントラルもボーリング場になって、それも今はなくなった。映画館の近くに高級プラモデル屋さんがあって、レーシングカーで遊んだこともあったな。駅の南口に向かう銀座通りに、不思議なことに時計屋さんが五軒もあった。おじいさんが奥の方にいて仕事していた。好きでよくのぞいたけど、そのお店もいつの間にかなくなっちゃった。この通りと五日市街道の角(今の広島カンランのところ)にヤマザキパン屋さんがあって、その隣がクリーニング屋さん、その数軒さきが食堂だった。ちょうど関東バスの停留所前だったと思います。オムライスとかよく食べたけど僕の食堂のイメージはこのお店ですね。五日市街道沿いには、魚屋さんとか好きで通った本屋さんとか、お店屋さんがたくさんあったけど、ほとんどなくなっちゃたですね。残っているのは高橋菓子店ぐらい。昔のことを知っているというのは、いいことなのか悪いことなのかよく分かんないですよね」。

西荻の今と三代目

話題を今に戻して、西荻窪の魅力について語ってもらうことにした。「久我山のほうになっちゃうけど、ちょっと木が繁っていて武蔵野の雰囲気が残っているところ、西荻にもあるけど緑の多いところが好きですね。この間読んだ橋本治さんの本で彼が言っていたけど、西荻は隠れおしゃれタウンなんだそうですよ。そんなこと言わなくても、高円寺や阿佐ヶ谷もおなじだけど、駅前に安くておいしい焼き鳥屋があるのがいいですよ。西荻だと戎ね。狭くて小さくて昔風のバラックで崩れ落ちそうな雰囲気がいいですよ。いいよね、このいい加減さが、駄目さが好きですね」。
「そうそう、このことは言っておきたいんですけど」、と強調されたのは、「西荻に住んでいていいなと思うのは、金田一家三代目でよかったなと思わされることですね。床屋さんに行くと父の髪型がこうだったとか、すし屋で父の好みがこれこれだったとか話をされると、浮ついた名前だけの関係という感じでなく、なんか地に足の着いた安心したお付き合いができて、この地に生まれた三代目ということを実感できることがうれしいですね」。

今の日本語の状況について尋ねると、「若い人は若い人なりに自分に合った言葉を使っている。間違っていても自分の気持ちにぴったり合う言葉を使っている。それはどうしようもないことですね。でも、大人は違う。間違った言葉を使ってはいけない。大人は注意してもらえないですから。政治家の言葉使いはひどいものだし、団塊の世代はたかが言葉じゃないかと思っているようで、どうしようもないですね」、とこれまでの話ぶりとは違った、きっぱりとした口調でいわれた。
取材が終わるころ、「今日は西荻なので早めに行って、水のおいしい西荻でうまいコーヒーを飲もうと、楽しみに来たのに、降りたらもう来てるんだもん。アリャと思って、行きそこなっちゃったよ」、と言われてしまった。おいしい喫茶店があるのも西荻の魅力の一つですね。お会いしたとき、そうとは知らず松庵舎に案内してしまい失礼いたしました。よく通った喫茶店ということなので、帰りに寄られたことと思いましたが、戎かもしれないという声もありました。先生、早く行き過ぎてすみませんでした。

文: 鈴木英明
写真: 澤田末吉
取材日 2017年6月26日
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。
著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ

 
フードショップ『喜久屋』は、昭和20年(1945年)の開店当初から南口の『こけし屋』、北口の『喜久屋』と西荻人から親しまれ、戦争で荒廃した社会をハイカラにする牽引役を果たしてきた。最近、その『喜久屋』の向かいにある北口駅ナカに同業大手『紀ノ国屋』が参入してきた。
『紀ノ国屋』は、明治43年(1910年)に青山で果物商としてスタート、昭和28年(1953年)、それまでのザルで代金のやり取りをする「留め銭」と呼ばれた手法から、レジスターで精算する新しい買い物スタイルを導入、日本初のセルフサービス・スーパーマーケットを青山に開店した。その後、パン食を始めとして、これまで日本にはなかった舶来食品の販売に力を注いだ。
取り扱い品目は、まさに『喜久屋』と競合する。会社規模や資金面からすると敵う相手ではない。これまで大黒柱として店を切り盛りしてきた代表取締役の上野山圭祐さんも高齢になり、『喜久屋』にピンチが訪れた。
 

顧客と寄り添う『喜久屋』の存在

圭祐さんは、横浜市鶴見区の出身、戦時中は縁故疎開で信州に暮らした。帰京後、叔父が経営する阿佐ヶ谷の書店を手伝いながら松の木中学の一期生として学校に通った。ちょうどその店の隣にあった食料品店『喜久屋』を経営していた吉田清蔵さんの目に誠実に働く圭祐さんの姿がとまり、西荻の『喜久屋』への就職が決まった。
『喜久屋』社長の上野山喜吉さんは、戦後復員して故郷和歌山からみかんを当時神田にあった市場に卸していた。その他にも西荻窪でパチンコ店、映画館、証券会社など、手広い事業を展開するする経営者だった。圭祐さんは、そんな喜吉さんの下で働くことになった。
 

ここでも彼の誠心誠意の姿勢は変わらず、喜吉さんに気に入られ上野山家の娘婿として迎えられ、新たな店を任されるようになった。どのような店にするかの構想を練るため、青山の『紀ノ国屋』、銀座の『明治屋』、新宿の『高野』などを参考に見て回り、商品の種類、並べ方、接客の仕方など、商売の基本を勉強した。
 

しかし、何分戦後で物資の乏しい時代なので店に並べる商品がない。配給された小麦粉を集めてパン屋で製パンしてもらい、その工賃を貰って舶来の缶詰を購入、北海道から乾燥した数の子を求めるなどして少しずつではあるが商品が店頭に並ぶようになった。時の経過と共に品揃えも充実し、西荻という土地柄を生かして、いち早くウイスキー販売の許可を取得、舶来ウイスキーの販売を始めた。
 「家庭の食卓をどのように演出するかを想像し、それに適したお酒、料理、食材をそろえるようにした」と圭祐さんは語る。そして、顧客との会話に耳を傾け、バター、チーズ、オイル、調味料、缶詰、ワイン、日本酒、ウイスキー、コーヒー、パスタ、菓子や材料など、ニーズに応えるよう努めた。
関東では珍しい関西や東北の菓子なども店に並べた。今では入手が難しい伝統的な商品や家内工業的に作られた手作り菓子も扱った。日本の古き良き文化を大切にしたいという思いからであった。今でも店内で金花糖の販売は人気の的だ。金花糖(きんかとう)は、煮溶かした砂糖を型に流し込み、冷やして固め、それに食紅で彩色した砂糖菓子である。江戸時代に南蛮菓子を真似て作られたものとされ、結婚式の引き出物や節句祝いなどに用いられる菓子である。
まずは顧客の声を大切に聞き入れ、品揃えをする。そして、すぐに商品を調達するフットワークの良さこそが『喜久屋』の真骨頂である。東京には地方からやって来た人が大勢住んでいる。そういう人達から「『喜久屋』に行くとこういう物が在る」との口伝えによって店は発展してきた。
インターネットブログで「クリーミーでまろやかなブルーリボン付ビン入りマヨネーズをもう何十年も愛用していますが、今でも一番おいしいマヨネーズだと思っています。このマヨネーズだけは『喜久屋さん』で購入したい」というこだわを持った熱烈なファンが『喜久屋』にはいる。昭和に生きた人々の思い出に寄り添いながら歩んだ『喜久屋』が浮かび上がる。

商店街の圭祐さん

上野山さんは『喜久屋』だけではなく、西荻窪商店街青年部も立ち上げた。
『駅前盆踊り大会』や『大売出し』など、いろいろな企画を立案した。なかでも有名なのが『ハロー西荻』、毎年5月に行われる西荻の名物イベント、街中で音楽ライブやパフォーマンスが行われ、ウォーキングやスタンプラリーの抽選会で豪華な景品が当たることでも知られる。圭祐さんは、この『ハロー西荻』の名づけ親でもある。
圭祐さんの功績は、それだけに留まらない。彼は消防団員としても活躍、こんな地域への熱意に信頼を寄せる近隣の私立保育園など50か所から、「昼食などの素材を配達して欲しい」との注文が相次ぎ、長い間続けてきた圭祐さんだったが、高齢であるのと人手不足もあって、最近は同業者にその仕事を分配するなどして数を減らしている。
従業員には上野山さん自身が率先して手本を見せ、無言のうちに後姿で仕事を教える。まるで親子のような関係だ。従業員は「尊敬しています」と話す。
圭祐さんは「西荻窪は生活環境としては、とても素晴らしい場所。でも、商売には厳しいところもある。そんな立地だからこそ、お客様との対話を楽しんで大事にすることが私個人にとっても街全体にとっても重要なことだと思います」と語る。若い頃、参考にした『紀ノ国屋』が駅前に参入してきた。「時代の流れはどうしようもない」圭祐さんの表情は達観していた。
「お客さんが何を考えているのかを見極め、欲している商品を揃えていく。お客さんとの人間関係を築くことが個人経営で最も大切な要素です。商品の中身についても積極的に会話して商品研究をしなければいけません」と説く。圭祐さんは82歳になった今も現役、住んでみたい町西荻窪を支える原動力として欠かせぬ存在だ。西荻窪の文化を消さないために。頑張れ、『喜久屋』、上野山圭祐さん。
 
文:澤田末吉 写真:奥村森
 
参考資料
紀ノ国屋ホームページ
 
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

『松庵の本木』がブランド

 竹は私たちの日常生活にとって大変身近な存在だった。縄文時代の遺跡から竹製品が出土しているそうで、それほどの昔から私たち日本人は竹とともに暮らしてきた。様々なザル、カゴにはじまり竹竿、扇子、団扇、物差し、竹トンボ、竹馬などなど、身の回りにあった竹製品を次々に思い出すことができる。ところがいつの頃からか、身近にあった竹製品の姿が見えなくなってきた。竹トンボや竹馬のように子供の遊びの対象にすらならなくなったものや、台所にあったザル、衣装カゴのように日常の生活の中で使われなくなったものも多く、竹製品は、プラスティック製品の登場で消えていった。
本木文平さんは、竹職人の父利喜蔵さんと二代にわたって、杉並区松庵で竹にかかわる仕事をしてきた。今回は 本木さんに、竹をめぐるいろいろな話をお聞きしようと思う。

竹は孟宗竹と真竹

――本木さんはいくつのときから竹にかかわる仕事を始められたのですか
「学校出てすぐ、父親の手伝いということからはじめたから、18歳のときになるかな。昭和8年生まれだから、昭和26年ごろということになるね。主に、私は植木屋さんを相手に竹材を仕入れて売っていて、父が竹カゴの職人だった。その頃はね、松庵小学校はまだなくてその辺は、岸野さん、栗原さん、窪田さんの土地で、孟宗竹の藪だった。そのもう少し先に行ったところの栗原さんの土地には真竹が生えていた。その竹を譲ってもらってカゴを作っていた。細工に使うのはこの二種類。孟宗竹は太くて荒く割けるので、農家で使うかごに向いているの。豚カゴといって豚を入れられる大きなかごができた。高さが1m2,30、長さが2m、幅がこのくらいかな」、と広げた手の幅は1mぐらいだった。そのとき思い出したのが、江戸時代の罪人を入れて運ぶ唐丸カゴだけど、そんなものはもちろん作っていない。豚カゴより大きいのは、小学校の運動会で玉転がしに使う丸いカゴだそうだ。「真竹は細いけど粘りがあって細かい仕事に向いていた。小さいものは真竹でないとね、作れない。色の良さ、つやがあって、美しさは真竹だね。それに、垣根はいろいろあるけれど、あれは全部真竹。うちはザルも作ったけれど、カゴが専門、それでご飯を食べていた。」

竹は切り時が大事

 国内で生育する竹は600種ほどになるそうだが、本木さんは「あと竹では関西の黒竹と千葉の女竹。女竹は加工すると清水竹と名前が変わっちゃうの。女竹は密生しているんだけれども、今あんまり使い道ないでしょう」、と二つ、挙げてくれた。
竹は成長が早く、一日で、孟宗竹で119cm、真竹で121cm伸びたという記録がある(林野庁ホームページ、「竹のはなし」)。竹は伐採する時期が大事だと言う本木さんの話を聞いてみる。「切るのは一年で一遍だけ、虫が入るからね。切り時を切(セツ)というけれども、切がいいとか悪いとか言ってね、水が上がった後がいいの。竹が眠ると言ってね、冬眠に入った頃、そうねー、11月ぐらいだね。この時期がすごく大事で、時期さえ間違えなければ虫が入らない。春、藪に入って竹に生まれた年を書いておいて、切り時が来れば自分で切っちゃう。竹は一年で伸びちゃって、後は固まるだけだから、一番いいときは三年目だね。一年目のは新子というんだけれど、柔らかくて折れやすいから、カゴの縁をまくのに使うぐらい。四年、五年も経つと、つやが無くなってきて使えない。竹は面白いもんで、日当たりのよいところに生えているのは、こわくなってよくない。硬くなって割れてきちゃう」。

竹の虫を食べる

 いま昆虫食の話題を、雑誌などで見かけるが、本木さんはこの竹の虫を食べたことがあるそうだ。「竹に入る虫というのは、鉄砲虫と言ってたけど、食べるとうまいんだよね。虫に詳しくないけど、大きくなったらカミキリムシになるんじゃないかな」。ネットで「竹 害虫」と入れて、調べてみると、竹の害虫としてタケトラカミキリとベニカミキリが出てきた。白いイモムシのような幼虫からさなぎを経て、この成虫になると説明されていた。写真を見る限り、食べるのは幼虫の方だろう。味は確認していないが、ミャンマー料理では竹虫が調理されるようで、レストランのメニューの写真によく似ている。関心のある方はレストランで味わってみてはいかが。パンダは竹を食べますねと聞くと、「葉っぱだけじゃなくて固いところも食べるんだよね。何の栄養があるのかね。人間は竹の子を食べるけど、うまいのは孟宗竹ので、真竹のは苦いんだよね。だから食べない」。真竹は苦竹とも書かれ、ニガタケともよばれる。話を本題に戻そう。
――そうやって切った後、カゴになるまでの手順はどうなるのですか。竹は木材のように寝かしておくのですか。
「竹はたくさんは要らなくて必要な分だけ切ってくればいい。採り過ぎても無駄になるだけだ。この近所の竹藪で間に合っちゃう。一人の職人が使う量は知れてるからね。日陰に置いておくけども、あんまり時間がたっちゃっても使い物にならない。そこが木材と違うところだね。一年も二年も置いとくなんてことはしない。そこでカゴを作るとなると、一本の竹を割って、さらに四枚に裂く。これを竹ヒゴというけど、一本の竹から竹ヒゴが何十枚ととれるからね。何本も要らない。竹ヒゴは、一枚目から四枚目までそれぞれ特徴があって、一枚目の皮が一番良くて、だんだん固くなってくる。そして表、裏をちゃんと保っておかないといけない。表裏を逆にするとだめなの。それを編み込んでいってカゴにするわけだ。ここが職人の腕の見せ所だね。」
――できたカゴを買うのは地元松庵の農家ですか?
「そうね、松庵の農家が売り先で一般の家庭は、昔は使ったでしょうけど、そんなに使わないから。今カゴ製品はビニールになってしまったから、カゴ屋はもういないでしょ。農家もほとんどなくなってしまったから、カゴを買う人もいなくなった。カゴはね、雨ざらしにしたりしないで大事に使うと、何十年も持つの。そうすると売れる数も減って商売としてはうまくないけど、粗末に扱われるのを見るのはやだね」、と職人としての父の気持ちを代弁するかのようだった。

竹職人の利喜蔵さん

――少しお父さんのことをお聞きしたいのですが…。
「父は、大正の終わりころ小金井(栃木県)から松庵に来て、岸野さんに家を借りて職人としてスタートした。明治37(1904)年の生まれだから、21か2のときになるね。日が出る前から暗くなるまで、そして暗くなっても働いていた。一日三~四時間しか寝てなかったんじゃないかな。そうしないと食べていけなかった。その頃、職人の手間賃が日に一円五〇銭ぐらいだったんじゃないかな」。当時(大正15年)の喫茶店のコーヒーが一杯一〇銭、ビールが一本四二銭だった(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。「職人の稼ぎは少なかった。今にして思えばよく食べて行けたね。オヤジは大変だったろうと思うよ。だから子供を職人にしようとはしなかった。学問を身に付けろという考えで、学校に行かせてもらった。それで、私は竹を四枚にわることもできない。簡単そうに見えるだろうけど、素人には手を出せない。私はもっぱら竹材の仕入れと販売を受け持って、オヤジの手伝いをしたわけね」。

本木さんは、お父さんの修業時代の話を思い出して、職人になる苦労は並大抵のことではないと次のように話してくれた。「父は小学校を出ると修業に出たわけ。はじめは子守と雑巾がけだ。なかなか竹材や刃物に触らしてくれない。危ないしね。それからだんだんと簡単なことからやらせてくれる。親方が、よし、独立しろというまでが、修行だ。つらい仕事に耐えて一人前で、途中でやめていく人が多かった。奉公に十年はいかないと職人になれない。そんなこんなで一人前になっても、大変でしょ。仕事は、手間のカタマリみたいなもんだから、そんなに儲かるなんてことはないし、土をこねて茶碗作るにしても、名人という評判をとるまではもっと大変だ。大概の職人は、歯食いしばって頑張って、身体、使って来たから、歳とると歯がないの。自分が言うのも変だけど、立派な父親だったね。飲むのが好きだった。55のとき倒れて、働くのをやめた」。

――本木さんのお店は何という屋号でした?
「そんなのないの。店の名前はないし、看板もないの。『お前の作るかごはいいな』と言われるのが宣伝であり屋号なの。『松庵の本木』で通っていた。信用が大事で、すぐ壊れるような、いい加減なものを作ったら生活ができなくなっちゃうから、命懸けだ。ここで駄目になったからって、知らないところに行ったって食べていけないんだから、人との付き合いは大事だ。父は人から受けた恩は決して忘れなかった。竹を譲ってもらったりして、松庵の地主さんに大事にされたおかげで、食べてこれたので、地主さんには頭が上がんない」。恩の大切さを強調する本木さんは、「今の時代、恩や感謝という言葉が無くなっちゃった」、と悲しそうな表情だった。

――お父さんの時代、竹屋さんというのはどのくらいあったのですか?
「大体、村ごとにカゴ屋はあったね。久我山、高井戸、松庵、関前とかに一軒づつあった。ある程度離れてないと、商売はうまくいかないよね。数えたことはないけど、農家が百軒以上ないとやっていけないんじゃないかな。さっきも言ったようにカゴは大事に使えばもつから、そんなに売れるものじゃないしね。沢山作って、今度は市場に持って行っても買いたたかれちゃう。安くても仕方ないから売ってしまうんだよね。うちがこの辺りで最後のカゴ屋だった。この商売はね、ビニール製品がはびこってきたときにもう、駄目なんです、負けちゃったんです。それに跡継ぎもいないしね。見込みがないって、そう思っていたから、仲間が止めていくのを見ても寂しくなかった。私は仕入れ販売をしていたから何とかやってこれたけど、とうとう力尽きて竹の仕事を止めよう、と思ったのが平成20年頃だった」。

――本木さんはお父さんの手伝いをするかたわら、文房具店を始めたのですか?
「よく知ってますね」、と尋ねられたので、以前、『西荻春秋』に金田一先生に登場していただいた時、本木さんの文房具屋さんによく行った、という話を聞いたものですから、と答えると、嬉しそうに話を続けてくれた。「あ、そうなんですか。松庵小学校ができたときに始めたんですよ。私が高校出てすぐに始めたの。今の文房具屋と違って何でも売りました。よろず屋だね。運動足袋なんかも扱ったけど、運動会のときの一回限りのもんでしょう。ノート、鉛筆はもちろんだけども大きな紙とかね、いろいろあった」。松庵小学校は、開校は昭和27年4月だが、他の小学校に間借りしていて、松庵の現在地に校舎ができて移ったのは同年9月のことになる(同小学校同窓会ホームページ)。

話終わって、少し竹のうんちく

 私たちと長い付き合いの竹は、はじめに述べたようにいろんな形で利用されてきた。食用にされ、道具を作る材料にされ、そして竹材としてだけでなく皮も使われる。子供のころ、おやつ代わりに梅干しを皮で包んで、しゃぶっていた思い出を持つ方も多くいるのではないだろうか。ちまきは笹の葉で包んでいる。肉屋さんは肉を竹の皮で包んで売っていた。「お弁当のおにぎりもそうだった。竹には殺菌作用があるからね、食品関係にもいろいろと使われたね」、と本木さんは懐かしそうに話す。

 空気も殺菌されるのか、竹林に入ると、何か清々しさを感じることがある。気持ちが洗われるような気分である。スッと一風吹いてくると、思わず姿勢を正したくなるような、まさに「地上にするどく竹が生え」た、静謐な感じがする。大げさに言えば神社のような聖なる場所に来たと思わされるのだが、そんな経験はないだろうか。誰もが知っている『竹取物語』では、竹の中からかぐや姫が生まれるが、彼女はこの世の人ではない。月に帰るのだから月の人、つまり天にいる存在、聖人が竹林で生まれる。竹林はそういう場所だった。「竹林の七賢」は世俗に背を向けて、竹林に入って清談にふけった、という故事もある。そんなことをあれこれ想うと、松庵の竹藪が消えてしまったのは、恩や感謝の言葉がなくなってしまったという本木さんと同様、悲しく寂しい気持ちにさせられた。桜並木の保存を言うなら誰か竹藪の保存に乗り出してくれないかな、と思う。地震のときにも役に立つのだから。小学校の南側には梅の木がたくさん集まっていて、季節にはきれいに咲きそろう。近くに竹藪を復活させてくれれば、松庵の竹藪に梅となって縁起もいいのだけど…。
ところで竹はイネ科の植物だが、木なのか草なのか、どちらだろうか。専門家の間でも意見が分かれるそうである。異質なものをつないだという意味で、「木に竹を継いだような」という表現を使うことからすると、竹は木の仲間でないような気もする。『古今和歌集』に次の歌がある。「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの はしにわが身はなりぬべらなり」(雑歌下)。桓武天皇の女、高津内親王の歌と注が付けられているが、平安時代にすでにこのように思われていたのが面白い。これに対して現代、世界的に有名な竹博士である上田弘一郎京都大学名誉教授は次のように力説されていて、さらに面白いので紹介すると、「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ!」そうです。

 後日、養鶏家である窪田幸子さんの指摘によると、唐丸カゴの唐丸とは鶏の一品種だそうで、そもそも、その鶏を入れるかごを唐丸カゴと呼んだそうです。罪人を運ぶカゴは、形がそれに似ているのでその名がついたということでした。
 鶏と言えば伊藤若冲の名が浮かぶ。『若冲の描いた生き物たち』(小林忠ほか、学研プレス)のなかで、「紫陽花双鶏図」の解説に絶滅した大唐丸、現存する唐丸の話題が紹介されている。「…若冲の絵に描かれているもののなかには、大唐丸とおぼしきものが多く、絵画的価値だけでなく、家禽史の資料としても貴重なものといえる」とある。
文:鈴木英明
写真:澤田末吉
取材日:2018年5月28日
重要)このブログに掲載さ?てい?記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたしま す。記事を利用さ??方はご連絡をお願い致します。

“ドゥカティ”と“ヴェスパ”のあるテーラー

LID TAILOR 根本修さん

プロローグ

 西荻春秋の取材メンバーに冨澤信浩という記者がいる。彼は無類のモノオタク、車・バイク・ゴルフ用品・時計・携帯・音楽など、とりわけクラシックな機械モノに目が無い。そんな冨澤記者が是非とも取材したいと願望する店、それが根本修さんが経営するビスポークスーツやシャツをオーダーメードするLID TAILORである。欧米風なおしゃれな洋服屋さんと思って店内を覗くと、なんと、あのイタリア製のオートバイ“ドゥカティ”が、店頭にはスクーター“ヴェスパ”が飾られているではないか。それもかなりの年代物、居ても立ってもいられない冨澤記者は店に飛び込んだ。

 

モノ好きな二人、映画「ローマの休日」で心が通う

 
 LID TAILOR(リッド テーラー)の根本修さんは1972年生まれの44歳。店に飾られる“ドゥカティ750 Super Sport”は1974年に製造された42歳、知る人ぞ知る憧れの名車である。根本さんは「いつでも快調に走ります」と誇らしげに語る。それもその筈、これほどピカピカで大切に扱われた“ドゥカティ”とは滅多に出会うことが出来ないからだ。マニアにとっては宝物と冨澤記者は興奮する。
 根本さんによると、数台の“ドゥカティ”を所有する友人に是非譲って欲しいと声を掛けていたが、長年の夢が叶ってやっと実現したとのこと。自分は、いつも預かっている気もちでいると語る。ディスプレイされたスーツの陰にさり気なく置かれる“ドゥカティ”、「何とも言えないノスタルジックな気分になる」と冨澤記者はうっとり眺める。
 一方、“ヴェスパ”は1964年製、映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが乗った、あのスクーターである。根本さんは「足代わりに使っている」というが、こちらも手入れが行き届いてピッカピカだ。「ローマの休日」の名場面に登場する“ヴェスパ”を必ず記事にして欲しいと、冨澤記者経っての願いなので、オードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック、そして“ヴェスパ”の場面を再現してみよう。
 

 ヨーロッパ最古の王位継承者、アン王女(オードリー・ヘプバーン)は、 欧州親善旅行でロンドン、パリなど各地を来訪、ローマでは任務を恙なくこなす王女だったが、内心は分刻みのスケジュールと用意されたスピーチを披露するだけのセレモニーにうんざりしていた。就寝の時間になると侍従たちにヒステリーを起こしてしまう。
 主治医に鎮静剤を注射され、気が高ぶってなかなか寝つけない。彼女は、宿舎になっている宮殿を脱出、夜のローマをぶらぶら歩く。やがて、鎮静剤が効いてきてベンチに身体を横たえる。そこを偶然通りかかったのが、アメリカ人新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリー・ペック)だった。若い娘がベンチに寝ているのを見て家に帰そうとするが、アンの意識は朦朧としている。そのまま放っておくことも出来ず、ジョーは自分のアパートへ連れて帰る。
 翌朝、うっかり寝過ごしたジョーは、まだ眠っているアンを部屋に残したまま、新聞社へ向かう。支局長から「アン王女は急病で、記者会見は中止」と聞いたジョーは、そこではじめて昨晩の娘の正体がアン王女であることに気づく。王女には、彼女の身分を知ったことを明かさず、ローマの街を連れ歩いて、その行動を記事にできれば大スクープになると目論む。

アパートで目を覚ましたアンは、思いがけない事態に驚くが、同時にワクワクする気分も感じていた。アパートを出た後も、せっかく手に入れた自由をすぐに捨て去れず、街をのんびりと散策、ごくふつうの女の子のように楽しい時間を満喫する。

スクープに必要な証拠写真をおさえるため、ジョーは同僚のカメラマン、アービング・ラドビッチ(エディ・アルバート)を誘って、アンを連れてローマを案内する。二人乗りスクーター“ヴェスパ”で街中を疾走、いろいろな名所を訪ねる。夜はサンタンジェロの船上パーティーに参加するが、その会場でアン王女を捜しにきた情報部員たちが現れる。アンとジョーは情報部員相手に大乱闘を繰り広げ、一緒に河へ飛び込んで追手を逃れる。

つかの間の自由と興奮を味わううちに、アンとジョーに恋心が生まれる。河からあがった二人は、抱き合って熱いキスを交わす。本当の想いを口に出せないまま、アンは祖国と王室への義務を果たすために宮殿に戻り、ジョーは彼女との思い出を記事にしないと決意する。その翌日、宮殿でアン王女の記者会見が開かれる。アービングは撮影した写真がすべて入った封筒を、王女にそっと渡す。見つめ合うアンとジョー。「ローマは永遠に忘れ得ぬ街となるでしょう」笑顔と共に振り向いたアン王女の瞳には、かすかに涙が光っていた。



(参考資料:ローマの休日 製作50周年記念デジタル・ニュースマスター版記事より抜粋)

テーラーとは

 Tailorを手元の英和辞書(『ランダムハウス英和大辞典』小学館)を引くと、(男子服を注文で仕立てる)テーラー、洋服屋、仕立屋とあって、その語源には初出が1297年で古期フランス語の「切る」という語から派生した、と解説されている。テーラーという言葉は13世紀末まで遡ることができるわけだが、その当時の服といえば袋のようなゆったりとしていて、仕立てる方もあまり腕の振るいようがなかったと思われる。テーラーの歴史は服装の歴史に重なる。どのような変遷をたどってきたのか、”The History of Tailoring” ( by G.B.Boyer ) で簡単に見てみよう。

テーラーの歴史

 中世期の服はルネッサンスの到来とともに衣服は次第に短く、タイトに変化していき、服作りも人の体形を意識したものに変わっていった。平らな布地をいくつもの部分に切り分け(カット)、縫い合わせることで立体的な人の体形に合わせた服を作り上げるようになる。17世紀中頃になると男子服の変化が始まり、それまで着ていたものからコート、ベスト、ズボンを着るようになり現代風の3点セットの原型が登場する。
 18世紀に入ると英国で男子服は、華美な装飾やフランス宮廷風なスタイルから離れ、新興のジェントリーや商人階級の好むはるかに地味な服装に移っていった。19世紀になるとこの傾向は宮廷にも浸透し、国王等の着る服と臣下の着る服にほとんど差がないような状態となった。そして産業革命のうねりの中で英国の服作りは、新興層向けに作り出された男子服のスタイルを進化させ、さらに、体形に合う(フィットした)服作りを進めた。英国文化が世界を席巻するに伴い、それにより、英国のテーラーがファッション界を支配するようになった。派手な装飾から離れる傾向が強まるにつれ、フィットするか、しないかは服作りの基準となり、そのためにテーラーにはより優れた技術が要求された。
 テーラーの服作りは機械化できないアートの境地に達する。人々は派手な表現より上品さ、簡潔さ、カットの完璧さをより好むようになる。テーラーは自らの服作りが一人ひとりのスタイル、個性のあらわれであることを確信している。今日、服装の世界が大量生産の時代を迎えるなか、テーラーはいずれ消滅すると言われたが、依然として個々の顧客本位の服作りと上質な服を武器に生き残り続けるとみられている。

テーラーの中心街サビル・ロウ

 テーラーの中心地はロンドン市内のサビル・ロウ(Savile Row)だ。一流の紳士服の仕立屋が多く並ぶファッション街である。英語でa Savile Row suitといえば仕立てのすばらしいスーツのことである。その街の老舗、Henry Poole & Coは1806年に創立された。父から事業を受け継いだヘンリーはサビル・ロウの創設者と呼ばれる。サビル・ロウの伝統を守ろうと設立されたホームページ(http://www.savilerowbespoke.com)には他の老舗のテーラー、Davies & Son,Gieves & Hawkes,Norton & Sons などの名が並ぶ。いずれも19世紀創業の店だ。しかしこれらの名になじみのある人は少ないだろう。テーラーは、顧客の注文で服を仕立てる店で、サイトの名にあるビースポーク(bespoke)の意味(服があつらえの)と同じである。大量生産して不特定多数の人々に服を提供するメーカーとは違って、テーラーの作る服は注文主の顧客にだけ合う唯一の、ユニークな服になるわけである。したがって、日本ではこれらのテーラーの名を知る人は限られてしまうことになる。

日本のテーラー

 さてテーラーという職業はいつ日本に誕生したのであろうか。日本が西洋文化に接した幕末と想像できるが、洋服ははじめ西洋服といったといわれる。福沢諭吉が慶応三(1867)年、彼の著書の『西洋衣食住』で西洋服のことを詳しく解説している。『福沢諭吉背広のすすめ』(出石昭三著)によれば、福沢は慶應義塾内に「衣服仕立局」を開き、塾生のために洋服を作り始めたそうである。同書から紹介する。
 西洋服を扱った最初の店は「富国屋」といい明治二(1869)年に日本橋で開店した。横浜の洋服商から仕入れていたそうだ。また日本人経営の初めての洋服屋は、横浜居留地で慶応三年に開いた「大和屋」であるが、万延元(1860)年、箱舘に日本人の洋服屋があったと言われている。和服の修理所にロシア人が洋服の修理を頼んだのがきっかけで、ロシア人の洋服を参考にして洋服を作るようになって、店の名を「木津洋服調達進所」といったそうだ。
 とにかく明治以降は文明開化ということで洋服の普及は目覚ましく、明治四(1871)年五月に発行の『新聞雑誌』には、「東京市中諸職人の中当時尤盛なるは軍服(ぐんふく)洋服(ヤウフク)の仕立屋なり」と紹介されている(小学館『日本国語大辞典』「洋服」の項)。

テーラー、洋服屋、仕立屋

 ちょっと横道の話。テーラーと洋服屋、仕立屋はどう違うのか。具体的にこう違うとはっきり指摘はできないが、仕立屋が少し古めかしい感じを受けるがどうであろうか。なにせ仕立てるという語は、「仕立て給える」という形で『源氏物語』にも使われている言葉だからそう感じてしまうのかもしれない。辞書(『同大辞典』)を調べれば、仕立屋は江戸期には使われていたことが分かるし、洋服屋は既に説明したように明治からで、テーラーは外来語として大正期の辞書に取り上げられている。ジョン・ル・カレに『パナマの仕立屋』(”The Tailor of Panama”)というスパイ小説がある。主人公の職業がテーラーでその邦訳題に仕立屋が使われている。ピーター・ラビットの童話の『グロースターの仕立屋』(”The Tailor of Gloucester”)も同じで仕立屋。映画にも『仕立屋の恋』というのがあった。どうやら文芸の世界では洋服屋は座りの悪い言葉のようで、仕立屋が好んで使われている。なお明治時代のスリの親分、「仕立屋銀次」は銀次が元和服の仕立て職人だったのでそう呼ばれたのだそうだ。洋服を作ってはいなかった。

LID TAILOR STORY

 根本さんは幼少の頃、母親が子供の服をミシンで縫う姿を目の当たりにしてきた。その潜在映像から洋服づくりに関心を抱き、この道をめざした。高校卒業後、服飾専門学校に進み、アルバイトで貯めたお金でお気に入りのテーラーで洋服を作った。福生の横田基地を拠点にしたアメリカナイズされた雰囲気の店でお洒落なオーナーに憧れていたからだ。
 専門学校卒業間近の頃、オーナーから卒業して何をするか決まっているのかと聞かれた。何も決めていないと答えると「それじゃあ、うちに来ないか」と誘われた。そのテーラーで10年ほど修業した。店の先輩から独立するので手伝って欲しいと誘われ、4年ほど一緒に仕事をした。その内に自分も独立して独自のスタイルで洋服づくりをしたいとの思いが強くなっていった。
 根本さんは1960年代にロンドンで発祥したモッズカルチャーが大好き、ビートルズやローリングストーンズの大ファンで、彼らの着ているスーツがカッコいいと思っている。着る側から作る側に代わっても、その思考軸は変わることはなかった。
 西荻窪の五日市街道添いに店を借りてスタートした。その後、今の場所に移転してLID TAILORという店名にした。今年で10年目を迎え、伊勢丹メンズ館や三越と取引するまでに発展した。
 冨澤記者が、テーラーなのに何故バイクとスクーターを置いているのかと質問すると、根本さんは「僕の周りには、趣味に共感して集まって来る仲間がいる。物で溢れる社会にあって、『これはカッコいい、これはカッコ悪い』とジャッジ出来る人達だ。彼等は服の選択にも自分らしい感性を発揮する。単に仕立てだから良いというのではなく、いろいろあるデザインの中から、根本スタイルを選んでくれる、それがLID TAILORの客層。“ドゥカティ”や“ヴェスパ”を愛する気もちと、テーラースタイルは重なると私は考える。特別に誂えた服は流行が終わっても、思い入れがあるから大切に着る人が多い。つまり、自分だけのものを大事にする精神が根づいている。いつまでも着続けられる服を作るのが、自分の基本コンセプト。時代に逆行しているかも知れないが、そこに共感して貰える顧客は沢山いるはず」と根本さんは語る。
 仕事で使う道具にも、根本さんのカタチ意識は強く感じられる。LID TAILORを杉並区松庵に開業した時、近所に老舗のテーラーがあった。挨拶に訪ねるとオーナーは90歳、高齢で廃業するのだという。ついては、60年使ったミシンを根本さんに貰って欲しいと願う。年代物で今では入手できない素晴らしいミシン、根本さんは綺麗に磨いて自宅に保管している。いずれは店のシンボルとして店に飾りたいと考えている。ハサミもイギリス製を好んで使う。日本製に比べると切れはよくないが、何ともいえぬ味がある。根本さんのカタチ好きは、テーラーの真髄を追求する源なのかも知れない。「楽しく仕事をするテーラーは、きっとよい服を作る」根本さんは、そう信じて止まない。
 テーラーになる人間は、縫製や物作りが好きとかいうのがベースにある。僕はストリート、モッズから服を始めた人間、だから凝り固まるのが大嫌い。10年後に同じ服を作り続けているか自分でもわからない。毎年よいと思うものが、多様に変わるという発想からだ。
 「僕は『職人一筋』とは、真逆の立場をとっている。勿論、縫製やカットの基礎技術は十分に習得していなければならないが、規則を重んじて縫製服だけを作っていたらテーラーとは言えない。テーラーの仕事は、その上にあると考えている。ネットが発達して要望も多様化している。リッド・テーラー・スタイルと合致する人に来てもらえればよい。誰にもわかって欲しいとは思わない。顧客が、わざわざ西荻まで訪ねてまでもリッド・テーラーの服を買い求めたい。そういう店であり続けたい」
 根本さんは穏やかな人柄だが、秘めたる強さを温存しているように思えた。

LID TAILOR
BESPOKE SUITS AND SHIRTS
〒167-0054 東京都杉並区松庵 3−31−16 #103
TEL&FAX 03-3334-5551
Mail: lidtailor@jcom.home.ne.jp
http://www.lidtailor.com/
文: 冨澤信浩&鈴木英明
編集: 奥村森
写真: 澤田末吉(ローマ画像)
奥村森(リッド・テーラー画像)
取材日 2016年11月28日
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。
著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

『オンギ』、ホットする味、韓国小皿料理

 
 西荻窪駅南口を出て、左手の線路沿いの平和通りを荻窪方向に5分ほど歩いて行くと『韓国小皿料理オンギ』に着く。韓国料理イコール焼肉と思って、そんなイメージの店構えを想像していくと通り過ぎてしまうかもしれない。ガラス張りのなかが見える店はおしゃれな喫茶店といった感じだ。ローマ字でOnggiと書かれたドアを開けて中に入ると、「いらっしゃいませ」と笑顔の素敵なキム ユナさんが迎えてくれる。彼女が一人で切り盛りしている店内は、5,6人が座れるカウンター席と4人掛けのテーブル席が一つのこじんまりした、落ち着ける雰囲気。
―――早速、店名の『オンギ』の意味を聞いた。
「オンギは焼き物で壺とか甕の意味ですけど、日本で瀬戸焼とかなんとか焼きというのと同じで、焼き物のオンギ焼きですね。工芸品もありますし、キムチとかの発酵食品を容れたり醤油漬けに使ったりして、毎日の生活で普通に使っている壺ですね。韓国で料理を作るとき普通に使われている道具ですので、ま、そのイメージが、普通の家庭で食べるような、おかずのような料理を出すお店のイメージにつながるかな、と思ってオンギと付けたんですね」。
 韓国で日常的に食べている料理を提供するお店ということで、さらに、韓国小皿料理と前にも付けて『オンギ』としたわけだ。あらためて扉に書かれた店名や頂戴した名刺を見ると、Oの字の中には壺の絵がデザインされていた。お店にお客できていた韓国出身の人が、この絵を一目見て、韓国料理の店だと分かった、と言うぐらいで、故郷のシンボルのような存在なのだろう。
 

―――韓国料理というといろいろあると思いますが、なぜ小皿料理なんですか?
「あの-、韓国では家でも外でも、食べるとき、品数を多めに出すんですね。見た目ちょっと贅沢でないともてなした感じがしないんです。日本に来て一番違うなと感じたのが、品数が少ないな、ということでした。でも、お店で多く出したら一人で食べきれないし、お酒も飲めなくなるでしょう。一人で色々食べられる方がいいと思って…」とほほ笑む。
 

 
―――お店のメニューにはキムさんの出身地の影響があるんですか?
「いま出しているのは韓国の一般的なものですね」。メニューにはサラダ、キムチ&和え物、ナムル、韓国漬物、一品料理、チヂミ、と並ぶが、ごはん物がない。お酒を飲むときの肴になるものがメインだ。
「ごはんをやると定食屋みたいになっちゃうし、私一人ではできないですね。夏に冷麺はやりますけど。でも、常連さんで、よそで買ったものを持ってきて、今日、これでお願いと、裏メニューみたいだけど、頼まれて作ることがありますよ」と笑いながら話す。
 お気に入りの料理を紹介すると、まずチヂミ。海鮮、じゃがいも、にら、エリンギなど7、8種類ある。「何でも衣をつけて焼けばチヂミですね」とキムさんが解説してくれる。焼きたての衣はふんわり、中身のレンコンは軽くサクッとしながらしっとりとジューシーで柔らかい。焼き過ぎの焦げめもなく、さっぱりしたタレをつけて食べると、パクパクっとお腹に収まってしまう。皮付きニンニク丸ごとの漬物もびっくりするが、なかなかにオツだ。チョレギサラダ、ナムルも美味しい。一品一品は小皿に手ごろな量でだされる。どれも味がよく選ぶのに迷ってしまうほどで、これがまた楽しい。
 
 

「お客さんはほとんどが日本人ですね。ここに来る韓国人のお客さんはたいてい私の友達、忙しくなると手伝ってくれたりして」と言って大笑い。店内は落ち着いていて、明るく、かつての“おじさんたちの呑み屋”ではない。一人住まいで家では料理をしない人も、この店の家庭的な匂いとキムさんのもてなしに、自分を取り戻しほっとするのではないだろうか。

 店が混んできても、客の注文を忘れたり、間違えたりすることもなく、料理を用意しながら何人もの客と話が弾む。話題は政治の話やら日韓文化の比較の話、硬軟取り混ぜて何でも来いという風で、知的な会話も楽しめる。カウンターに座って黙って呑んでいても、いつの間にか話に引きずり込まれてしまうに違いない。キムさん、一度来たお客さんの顔は忘れないそうだ。
「まあ、プロですからね。それに顔を覚えると喜んでもらえるし…。でも、名前を覚えるのは大変。日本人の名前は韓国人より長いから」とにっこり。キムさんの話す日本語は、私たちが話すのと変わりがないくらいに上手だ。
―――きれいな日本語ですけど、どこで勉強されたんですか?
「来日する前にひらがなとカタカナぐらいは覚えてきましたけど、日本で日本語学校に2年間通って勉強しました。嬉しいね、ほめられて」と今度は照れ笑い。
 

―――キムさんご自身のことを少しお聞きしますが、日本に来られたきっかけは?
「最初ワーキング・ホリデーで2007年に来たんですよ。ちょっと1年ぐらいいて、日本の生活を経験して少し言葉を覚えたら帰ろうと思っていたんですけれども、楽しくなっちゃって留学することにして日本語学校に通ったんです。楽しくなったのは、私の故郷はプサンですけど、そこから離れているからなのか、ちょっと自由な気がして、うまく説明できないけどそういう感じが自分は好きだったんです。東京はグルメ天国じゃないですか。いろんな国の人が集まっていて、それぞれの国の料理が楽しめる。そこからいろいろな異文化が体験できる、というのも楽しかった。私は食べることも好きだし、作ることも好きですね。それで、日本語学校の後、料理の専門学校に行きました。」
「子供のころから料理は好きだった、ってゆうか、よく手伝わされたんですね。うちは大家族だったんです。父が長男なので兄弟が一緒だったりで、食事の準備は大変だった。一番多かったときは8人ぐらいいたんじゃないかと思います。それに普段の食事だけでなく、日本でいう法事?、先祖の命日だとかお盆、それに旧正月とか、とにかく年に何回も特別な料理を用意しなければならなかったんですね」。
―――それで料理の腕を上げたんですね。特別な料理というのは地方色豊かな伝統料理なんですか?
「法事で出す料理は大体決まってるんですね。日本のおせちみたいに何が入らなきゃいけないとか、そういうのが決まっているんです。そこにはニンニクを使ってはいけないとか、唐辛子は使っちゃいけないとかっていうように……」。
―――唐辛子なんか何にでも使われているように思っていましたけど?
「昔のキムチは白かったんですけれども、日本から唐辛子が入ってきて使うようになったんです。ですから昔のキムチは辛くなかったと思いますよ」。
―――キムチの地域による違いはどういうものなんですか?
「地方によっても家庭によっても味は違うので、一言でいうのは難しいんですが、プサンだと海のそばなので、ふつうは魚の塩辛を使うことが多いんですけど、魚を丸ごと入れて漬けるのもありますね。発酵すると骨まで食べられるんです。ソウルでは魚は貴重だからイカの塩辛なんかを使う。昔は冷蔵庫がなかったから保存食には塩を多く使ったけど、今はキムチ用の冷蔵庫まであったりするので、だいぶ塩気はなくなりましたね。醤油漬けとかみそ漬けもありますよ」。
―――どうして西荻にお店を出すことにしたのですか?
「1年ほど物件を探しました。神楽坂や飯田橋辺りで物色したりしたんですが、なかなかいい情報がこない。それで探す範囲を中央線沿線まで広げたら、このお店が見つかったんですね。ここは一目ぼれでした。これはいいなという感触でした。前のお店も食べ物屋さんだったということで、すぐ借りることができました。
 

 西荻の街の落ち着いている雰囲気も気に入りました。日本に来て十年になりますけど、大久保とか高田馬場に住んでいたころは日本にいるという感覚を持つことがあまりなかった。でもここにいると、お客さんもいろんな職業の人がいて、そういう人たちとつながりができていくじゃないですか。日本人の中にやっと入れたという感じがして、これが日本での生活かなという実感がわきますね。」
―――開店して一年、これからの希望とか将来への夢を聞かせて下さい。
「女性のお客さんがもっと増えてほしいな、という願いはあります。そうなれば、ここでキムチの漬け方とか、料理教室をやれるんですけれども。ま、ちょっと大げさですけど、韓国文化の発信をしていく、料理も文化の一つですから、料理でできることをやっていきたいと思っています。宮廷料理や焼肉料理、辛い味つけだけが韓国料理じゃなくて、わたしが創ってここで出している小皿料理も韓国料理なんだと、知ってほしいですね。」
 西荻にまたいいお店ができたなと、強く印象に残りました。女性の方、一人でも気楽に入れますし、食べて、飲んで、料理の話など楽しんでください。常連さんが増えることを願っています。食を通じて韓国文化の発信をしたいというキムさん、これからのご活躍が楽しみです。
 
韓国小皿料理 Onggi(オンギ)
 
東京都杉並区西荻南3ー19ー13
TEL 03−6883−3268
営業時間 17:00ー23:00
日曜定休
 
文:鈴木英明、窪田幸子
写真:澤田末吉
 
取材日 2017年6月28日
 
重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

見聞・『荻窪風土記』———相沢堀の巻

 八丁から青梅街道を歩いて、と言いたいところだが、荻窪から地下鉄に乗って一駅の南阿佐ヶ谷駅で降りて相沢堀をたどっていくことにした。向かう先は高円寺、中野方面だ。新潮文庫版の『荻窪風土記』(23頁)に「今、八丁通りと平行に地下に潜っているクリークは、大震災前にはきれいな水が流れていた。その用水が今の公正堂ゼロックス店のところで……阿佐ヶ谷に向けて分流する用水」と書かれているのが相沢堀で、「相沢堀は、今の杉並区役所の手前のところから阿佐ヶ谷田圃へ入り、東流して高円寺、中野を通り(桃園川)新井、落合に流れ、昔の神田上水の神田川に合流、関口大滝のドンドンで早稲田lの蟹川を暗渠で合流させている」とある。

逆U字杭を探す

杉並区立第七小学校

 地下鉄南阿佐ヶ谷駅で降りて地上に出れば、そこは杉並区役所のそば、「杉並区役所の手前のところ」とはどの辺りになるのか?青梅街道を荻窪方面に戻ることになるが、そこここにある案内板ではまるで分らない。行き当たりばったりでは迷子になるだけだ。便利なネットで調べてみると、阿佐谷南3-9辺りが、「杉並区役所の手前」になるのではないかと、見当をつける。住居表示を確かめながら歩いて行くと、あった。成田東5丁目の信号のところだ。右に曲がるとすぐ、杉並区立第七小学校につきあたる。左手の角の建物には「日本大学相撲部」の看板が下がっていた。この間の道に立って左右を見回すと左手に、暗渠の印だと,八丁の取材時にお世話になった志村さんから教わった逆U字型の車止めがたっている。その後ろの暗渠の上には杉並土木事務所と手書きで書かれた鉄板がかぶせてあった。そこから上流方向に向かえば青梅街道に出られるかと思って歩いて行くと、すぐに突き当たって右に折れた道は50㍍ほどで行き止まりになっていた。相沢堀に間違いないな、と思いながら戻ってくると、小学校の校庭で遊んでいた女の子が「おじさんたち何してるの?」と金網越しに聞いてきた。カメラやメモ帳を持ったオヤジたちがうろうろしているのが、その子の好奇心をかき立てたのだろうか。「川を探しているの」と答えると、「ここに川なんてないよ」、と即座に返ってきた。「いいの、あるんだからさ」とは言わなかった。相沢堀はこの小学校の校庭の下をほぼ対角線上にくぐって流れているということなので、学校の塀沿いに廻ることにした。

日本大学相撲部

 学校の塀は途切れて途中から住宅街になってしまうので不安になるが、小学校の先の角を右手に折れて阿佐ヶ谷方向に向かっている通りに入った。直ぐ、右手奥に暗渠らしき道が見えたところで曲がってみると、逆U字型の車止めがあったので一安心。そこで川上に行く道は狭くなっていて、その路の左側には背の低い木が茂り、右側に立ち並ぶ家々はみな庭が路に面している。まさに川にふたをして道にしたという様がそのまま見てとれる。とりあえず奥まで行って、確かに小学校の塀から出て来た川ということを確認して逆U字杭に引き返した。

杉並区立第七小学校裏手

 そこから今度は逆に、川下方向に向かう広い道をたどることにした。かつて道路の横を流れていた相沢堀を暗渠にしたせいなのだろう。その分、道が広がっている。歩いている我々の左手に暗渠部分がある。右手に並ぶ家の玄関はこの道路に面していて、左手に並んだ家は庭が道に接している。こういう場所はいいのだけれど、もともと川だけが流れていて両岸が人家というところを暗渠にされてしまうと困ったりしないだろうか。遊歩道として利用されると、そこを歩く人に家の裏側を覗き見られる格好になる。住む人たちは落ち着かない気持ちがするのではないかと、よけいな心配をしたりするのだけれども、どうなのだろうか。そんなことを思いながら歩いたが、当時の阿佐ヶ谷田圃の様子を思い浮かべるすべもなく、緩やかにカーブする道には人家が続き、それも集合住宅が多く、ただただ東京近郊の都市化のすさまじさに、あらためて感じ入るばかりだった。

暗渠の印の逆U字型の車止め

JR阿佐ヶ谷駅までで

釣り堀とちゃんこ田中

 その家並が切れて少し開けたところに、釣り堀「寿々木園」があった。看板に1時間600円(さお、エサ込み)とある。年配の人に交じって家族連れや若いカップルでにぎわっていた。釣人井伏鱒二に似ている人はいるかな、と横目で探しながら通り過ぎると、商店が並ぶかわばた通りにぶつかる。この通りを横切った数軒先が、日本大学の田中理事長の奥さんが経営しているというちゃんこ屋だ。相撲番付と同じ書体で書かれた看板「たなか」の文字が飛び込んでくる。ここまでの相沢堀は、日大相撲部通りと言ってもいいぐらいかな。ちゃんこはまたの機会にして、かわばた通りを左に入って行くと阿佐ヶ谷駅西口高架下で、その手前にまた逆U字杭を見つけることができる。そこからJR中央線に沿って相沢堀は流れていくが、その先はもう阿佐ヶ谷駅、中杉通りを越えた駅ビルの向こう端から暗渠はさらにつづく。とりあえず、その場所を確認したところで我々取材班は、相沢堀探訪をここまでにして、荻窪に帰ることにした。ただ電車で帰るのではなく、井伏鱒二が歩いた同じ道で徒歩で行こうとしたのだが。
 彼が、「昭和二年の五月上旬、大体のところ荻窪へ転居することにして阿佐ヶ谷の駅から北口に出て、荻窪のほうに向けてぶらぶら歩いて行った。突きあたりの右手に鬱蒼と茂った天祖神社の森というスギの密林があって左手にある路傍の平屋に横光利一の表札があった。横光は流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われていた。」(新潮文庫版、18頁)と、書いてある道を歩いてみようという気を起こしたわけだ。しかし事前になにも調べずに、いきなりその道を歩こうとするのは無理である。まず行くべきところは図書館だった。

天祖神社と横光邸

 後日、『杉並町全図 昭和三年』『同 昭和六年』で調べてみると、六年版の地図に、駅近くに天祖神社の記載がある。現在の神明宮である。神明宮発行の「参拝の栞」には、主祭神は天照大御神で、平成2年、社号を天祖神社より創建時の神明宮へと複称と、記されていて、このお宮が以前、天祖神社とよばれていたことがわかった。

荻窪風土記の中の「天祖神社」 現在の「神明宮」

 森泰樹の『杉並風土記』には、「河北病院五十年の歩み」に書かれた中島善四郎の次の一文が紹介されている。「昭和の始めの頃の阿佐ヶ谷、特に四丁目(現在の北一丁目)を私は気に入っていた。……森に朝霧がかかると、湿地の芦叢ではヨシキリが鳴く。一日中鳴くのであった。土用になると暁方と夕方には相沢さんの杉森、天祖神社の杉森、世尊院の杉森、この三つの大杉森で一斉にヒグラシが泣き出す。……」と。鬱蒼と茂った天祖神社の森が当時、どんな様子だったのか、知ることができる。

神明宮の桜

 そこで横光利一の家は、上に引いた井伏の文章によれば、天祖神社の向かいに位置するように読めるが、通りを挟んで向かい合うというような位置関係ではなかった。『炉辺閑話―杉並郷土博物館だより 第27号』に、昭和2年、横光が住んでいたのは杉並町阿佐ヶ谷290番地(現・阿佐ヶ谷北3丁目)であった、と本橋宏己が書いている。三年版の地図で探すと、阿佐ヶ谷北3-5辺りである。その住いについて、『横光利一全集』(改造社)の月報に竹野長次が次のように綴っている。「私が横光君とお會ひしたのは昭和二年の夏の初頃であったとおぼえてゐる。その頃、君は阿佐ヶ谷に住んで居られた。驛を降りて北の方に進むと尼寺があって、杉の森があった。その森の緑に添ってなほ北に三四丁程行くと、左の方に真直ぐに伸びてゐる路があり、その路は『玉野』といふ地主の家のある森の中を横切っていた。その森を出はずれたところに、左側にやゝ南傾斜になった二百坪許りの宅地があり、そこに四十坪餘の家が建ててあった。それが横光君が新しい奥さんと楽しい夢を結ばれた思い出深い住居であった」。
 ついでに言うと、その住いを見つけるにあたっては、当時菊池寛家の書生をしていた那珂孝平が横光に頼まれて手伝っていた。那珂はその家について、「家賃五十園で五間のかなり大きな家を借りた。……横光さんはその年震災前に『日輪』『蠅』『マルクスの審判』などを発表して新進作家の地歩を固めていた。」と、思い出を語っている(『定本横光利一全集』月報6、河出書房新社)。
 あらためて地図を片手に阿佐ヶ谷駅北口から歩いてみた。駅前のバスターミナルを渡って、ビルの中の北口アーケード街を抜けて、やや左に曲がる道を北に向かった。この道は旧中杉通りだが、松山通りと街灯に表示されている。商店がずっと続いて賑やかだ。

法仙庵

 少し行くと、この通りに面した法仙庵というお寺につく。門前に掲示されている縁起には、「その初めは文久年間(1861‐63)阿佐谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり……作った共同墓地です。そして、墓地管理のため、江戸浅草・海雲寺(…)末寺・観音庵(…)より実山見道尼を初代庵主として請じて、開創したのが当庵です」(杉並教育委員会)、と説明されていた。まさに尼寺だ。さらに、「東側の塀に沿った道は、権現道と呼ばれた古道で練馬円光院子の権現(貫井5-7-3)におまいりに行く参詣道でした」と、書かれていた。商店街になっているこの道はかつての参詣道であったのだ。ちなみに、相沢堀はこの名主の相沢喜兵衛の名前である。法仙庵を過ぎて3、400メートル(1丁を約100メートルとすれば)行って、そのあたりで左に折れる真直ぐな道を探すと、ありました。多分、この道だろうと見当をつけて歩いて行くと、『玉野』の表札がかかったお屋敷があらわれ、その先の左手に竹野氏が書かれたような南傾斜の土地がある。横光邸のあとをしのぶことのできるような痕跡や記念碑らしきものは何もないので、確かめようもないが、多分ここがそうなのだろう。緩やかな傾斜を降りてみると、この宅地の裏手には大きな銀杏の木が一本そびえ立っている。樹齢何年かわからないが、その当時から生えていた木々の生き残りではないだろうか。井伏の歩く姿を見ていたかもしれない。井伏がたどった道はこの道でまず間違いないだろう。

横光邸へ向かう一本道

唐草模様のカーテンの明かり

 ところで、この時、井伏は横光の家に寄ることはなかった。二人はその頃、どういう付き合いをしていたのだろうか、そもそも付き合っていたのだろうか、という疑問がわいた。井伏と横光は早稲田大学文学部仏文学科の同級生、お互いに明治31年生まれの同い年だ。さらに言えば文学の師も佐藤春夫で同じであった。もし親しい間柄ならば、突然訪ねてもおかしくはないのではないかと思い、そのあたり少し調べてみた。
 横光は自分の学生時代について「富ノ澤麟太郎」という随筆で語っている。「彼(注・富ノ澤のこと)は私とは同じクラスであったが初め私は彼を少しも知らなかった。私の組には常に一室に二百人近くもゐたからだ。……私は滅多に自分から友人や人々を訪問したことはなかった。その頃私は外へさえ出歩いたこととてなく、学校でも人々と言葉を交えたことさえ殆どなかったにも拘わらず、彼の場合だけは私から彼の下宿へ突然に訪問した」(『文藝時代』、大正十四年五月号)と。二人は話が合って、これをきっかけにして親しい仲となるが、横光がこれでは、同級生でも俺、お前と気安く呼び合えるような関係になるのは、難しいだろうなと思われる。
 井伏も「富ノ澤麟太郎」(『新潮』、昭和44年1月号)と、同じ題で書いている。そこには、銭湯で友人から富ノ澤を、「佐藤さん(注:春夫のこと)のお弟子さんで、横光利一の親友だ」と、紹介される場面がある。『荻窪風土記』でも井伏、横光、そして二人の共通の友人富ノ澤が新大学令で同じクラスになった、と出てくるけれども、二つの「冨ノ澤麟太郎」も含めいずれにも、それぞれの関係が発展して三人一緒の付き合いが始まるようなことは書かれていない。(『荻窪風土記』の「荻窪(七賢人)」の章で、横光の一周忌の帰りに寄った魚金で、そこの細君のはなしとして、横光と富ノ澤の二人が登場する)。
 井伏が書いたものをいくつか読んでみると、どうも横光との関係は薄かったようにみられるが、そのなかでも彼の気持ちがよく表れていると思われるのが、「阿佐ヶ谷時代の横光氏のこと」と題した随筆の次の個所であろう。「私は阿佐ヶ谷時代の故人のことは幾らか知ってゐる。書斎の窓に唐草模様のカーテンが掛けてあった。どんなに夜ふけに通っても、そのカーテンのところにだけは明かりがさしてゐた。たいてい夜ふけて私がそこを通るのは、阿佐ヶ谷あたりで酒をのんで歩いて帰る場合が多かった。私は唐草模様のカーテンの明るみを見て『またブレーキがついてゐる』とよく思った。人にも実際たびたびそう云ったことである。ブレーキとは、こちらの堕落を防ぐブレーキの意味である。故人の存在は私には堕落を防ぐブレーキであった。そのころも私が堕落しきることができなかったのは、このブレーキが可成り効きめがあったやうに思はれる。」(『風雪』昭和23年4月号)
 また同じ時期に書かれた次の文章からも、彼の横光に対する気持ちを読み取ることができる。昭和23年8月、『新大阪』という新聞に、井伏は「菊池・横光・太宰を想う ――新盆を迎えて」題した一文を3日、4日、5日の3日間にわたって寄せている(横光は昭和22年12月、菊池は23年3月、太宰は同年6月に亡くなっている)。そこで横光のことを次のように書いて偲んでいる。「……したがって七年近くの間に、それも甲州でたった一度しか会わなかった計算になる。そんなに私と横光氏との個人的交渉は薄かったが、この人の存在は私にはいつも一つの目標となっていた。出処進退に何か清潔な感じがあって、孤高を念じている人とわたしは見ていたからである。自分ではそれを真似ようとはしなかったが、作家の態度として現今また得難いものと見て、その意味で目標にしていたのである。」井伏はまた、このようにも言っている。大正十二年に横光が長編『日輪』を発表して、大きな反響を呼び、「時めく花形作家になって、私の生涯のうちで、こんな華々しい文壇進出をした人を見ない。」(同文庫版、56頁)と。
 こうしてみれば、当時、文学青年であった井伏が、「流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われ」、すでに注文原稿を書いていた横光に、同級生意識などを持つことなかったろうし、また親しい付き合いをする仲でもなかったと思われる。阿佐ヶ谷の横光の家に昼間でも訪れることはなかった。ただ、この唐草模様の明かりが、井伏の心のなかで灯り続けていたのではないだろうか。
 井伏の阿佐ヶ谷駅から自宅にむかう足取りを確認できたことに満足して、天沼を抜けて彼の家のあった清水には向かわず、夏の陽に照らされた道を歩いて、荻窪駅に出た

文:鈴木英明
写真:澤田末吉

取材日:2018年3月26日

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。