月別アーカイブ: 2019年11月

隣りまち、武蔵野プレイス訪問記

 最近図書館を利用したことがありますか。何十年も前、受験生のときに利用しただけでそれっきりという人は、図書館の変貌ぶりに驚くに違いない。咳ひとつはばかれるような静かな館内、本の匂いが醸し出す重苦しい雰囲気、カードを繰って図書を探す面倒な手間など、図書館のイメージには暗いイメージしかなかったが、今、様変わりである。館内は明るく開放的で、図書を探すのもパソコンで簡単に見つけることができる。ライブラリアン(司書)の方が笑顔で迎えてくれる、そんなことが多くなったように思うのは気のせいか。
ライブラリー・オブ・ザ・イヤー(NPO法人知的資源イニシアティブが2006年から年ごとに実施)という図書館を対象にした賞がある。そこで大賞に選ばれた図書館の選定理由を見ていくと、近年の図書館の変化の傾向が表れているように思われる。データベースの活用や蔵書の横断検索、デジタル・アーカイブの作成など図書館サービスのデジタル化の動き、街づくり、地域活性化の拠点としての図書館サービスの展開など、図書館がたんなる本を貸し出すところではなくなっていることがよく分かる。

  JR武蔵境駅前の一等地にある武蔵野プレイス

複合施設の武蔵野プレイス
そうした変化の先端を走っている図書館として話題を集めている武蔵野プレイスを訪ねて、いろいろとお話を伺った。武蔵野プレイスは2011年7月に開館した武蔵野市立の公共施設である。JR武蔵境駅前の一等地にある。西荻窪地域を本拠地としている『西荻春秋』としては対象地域から少し外れるのでは、という声も聞かれそうだが、武蔵野市は杉並区の隣、松庵舎とは路一本を隔てただけなので、今回はほんのちょっとお隣にお出かけという感じで訪問することにした。
武蔵野プレイス館長の斉藤愛嗣さんに説明して頂いた。「武蔵野プレイスは図書館ですかとよく聞かれるのですが、図書館だけでなく生涯学習支援、青少年活動支援、市民活動支援の4つの機能が融合された複合施設だと返事しています。」と最初に話された。つまり図書館を核にして他の3つの支援サービスが一緒になった施設というわけだ。

館長の斉藤愛嗣さん

    様々な「市民活動」や「アクション」に触れることができる複合施設

武蔵野プレイスのホームページから引用すると、

人々が日常生活において、自主・自発的に読書や学習を継続できる機会や、身近で行われている様々な「市民活動」や「アクション」に気軽に触れることができる場が重要です。武蔵野プレイスは、この“気づき”から始まる「アクション」の連鎖が起こり得る「機会」と「場」を提供し、支援していくことをめざしています。

 とある。利用者が他の活動に気づいてそれに参加し、新たな活動を始めていくという連鎖が起きる、あるいはそのための機会を提供する場所だという。武蔵野プレイスは、単に異なるサービス、機能を同一の建物内に設けただけの施設ではなく、そうした機能が融合していくことを主な狙いにした複合施設であるという。

透明性を高めたデザイン、日本建築学会賞受賞
館内のデザインも壁がなく、ガラス張りの部屋が並んで開放的だ。「会議室、スタディコーナーなど皆オープンにし、それぞれの活動が外からすべて見えるようにしてある。図書館のある2階と地下1階を除いて、同一のフロアに異なるサービスのエリアを置くようにしています。気づきを促すように廊下もなくし、分け隔てをなくした透明性を高めた設計になっています」。3階には市民活動エリアと生涯学習支援のスタディコーナーがあり、1階にはマガジンラウンジとギャラリ―、カフェ・総合カウンターが、そして地下2階にはアート&ティーンズライブラリーと青少年活動支援のスタジオラウンジ、オープンスタジオという具合に違った機能(サービス)のエリアが同一フロアの設置されている。

           レストラン&カフェコーナーとメニュー

 透明性を高める仕掛けとしてもう一つ斉藤さんが強調されたのは、「フロアをつなぐ回遊(らせん)階段が2か所に置いてあります。4階と3階をつなぐところと、地下1階と同2階をむすぶところです。普通ですと階段はフロアの隅にあったりしますし、エレベーターで目的階にスッと行ってしまったりしますと、なかなかほかの活動に眼が行きにくいですね。回遊階段はできる限りそういうことがないようにしてほしい、という狙いから設けたものです」。斉藤さんはブラウジング(ぶらぶら見て歩くこと)という難しい言葉を使われたが、「言い換えますとね、館内を回遊していただくことで“気づき”のきっかけにして欲しいし、ある一つの目的で来館されても他の機能、サービスに気づいて利用していただきたいということです」。
こうしたデザインが評価されて武蔵野プレイスは、2016年日本建築学会賞(作品)を受賞している。選定理由に、「4つの機能は、いったん数十個のルームに割り振られ、吹き抜け空間とともに立体的に組み上げられている。ルームのつながりを重視し、廊下を排除することで人々の活動が自然に混じり合い新たな発見とアクティビティの創出を目論んだものであるが、見事に成功しており、本作品の最大の魅力となっている。」とある。

   透明性を高めるためガラス張りにしたスタディコーナーとレンタル会議室

 ――実際に利用者が“気づき”によって他のアクションにつながっていったという例を紹介して頂けますか?
「具体的にと言われると、なかなかお答えするのは難しいのですが…、三階に貼ってあるポスターやチラシなどは市民活動団体のものに限定しています。『あ、こういうことをやっているんだ』と、様々な活動に気づいてほしいわけです。イベント参加者にアンケートで、『このイベントを何で知りましたか』と聞くと、『館内の掲示で知った』という回答が数多く、図書を借りに来て館内でいろんな行事をやっているんだなと知る(気づく)人が大勢いらっしゃることは間違いなく言えると思います。」

300を超す市民活動登録団体
――市民活動団体にはどのようなものがありますか?
「いま300を超える団体が登録しています。趣味や教養、福祉のグループ、社会活動の団体など幅広くあります。例えばペットロスを乗り越えるための活動をしている団体、視覚障害のある方に絵画を楽しんでもらうための活動をしているグループ、空き家対策の活動をしている集まりなど、本当にいろいろあります」。館内に置かれている「登録団体一覧」を分野別に見ると、多いのは福祉関係、社会教育、学術・文化・芸術関連などが目立っている。館内でのこれらの市民団体が企画するセミナーなどのイベント(事業)も盛んだ。
――セミナーの内容などについて何か制限はありますか?
「基本的に公共施設なので政治、宗教、営利活動はだめです。それ以外であれば使用目的は制限しません。3階に有料の貸し出しスペースとして5つ会議室があるほか、少人数でミーティングができる無料のスペースがあります。4階に講座・講演などに利用できる最大150人収容のフォーラムもあります。」平成29年度に市民団体が企画した事業には、「認知症になっても怖くない!iPadを使って外に出よう!」「日常に潜む性の搾取から子どもと若者を守るには」などが開かれたほか、市民活動支援事業として啓発事業なども行われている。

市民活動フロアーと資料

大学生とともに授業を履修、自由大学
――生涯学習支援サービスですが、主な対象になるのはリタイアした高齢者ですか?
「いや、リタイアした人だけでなく全世代が対象となります。若い人たちには学校以外の教育と考えてほしい。実態としては集まる人の多くが40代以上の人ということになりますが、土・日に関連の行事を開くと20代、30代の人たちも参加します」。やはり同年度の事業の主なものをみると、小・中学生向け事業で「読む|聴く|伝える|ことば探検隊」が全4回で開かれたほか、子育て中の方を対象に「アンガーマネジメント講座」、勤労者向けにはキャリア養成講座「大人の学び場」(全5回)、高齢者向けには「いきいきセミナー」(前・後期各13回)などが開かれている。各世代に向けていろいろな講座が開かれていることが分かる。
このほか特筆すべきことは、武蔵野地域にある5大学と連携した事業があることだ。5大学は東京女子大学、日本獣医生命科学大学、亜細亜大学、成蹊大学、武蔵野大学。その事業の一つが、武蔵野地域自由大学である。自由大学は、4大学(東京女子大学を除く)のキャンパスで現役の大学生と一緒に正規科目の履修ができる仮想大学である。正規科目の履修には、同年度に301名もの市民が参加している。またもう一つが、武蔵野地域五大学共同講演会・共同教養講座。これは各大学の協力を得て、市民を対象にひらかれる講座である。連続6回の共同講演会や20回連続の共同教養講座が開催される。
――履修して単位をとると、何か資格が取れるような仕組みになっているのですか?
「そこまではやっていないのですが、正規科目を履修すると単位でなく1ポイントが付与されます。これだけでなく他の講座・講演会でもポイントが付きますが、これが20ポイントになると市民学士、30ポイントになると市民修士というように武蔵野地域自由大学独自の称号記を授与しています。生涯学習への意欲を持っていただくためです。さらに、われわれの願いを言わせてもらえば、この自由大学の卒業生が同期会として市民登録団体になれるのですが、登録団体として他の活動につながって行ってほしいな、という思いがありますが」。

青少年の「居場所」に
――青少年活動支援にあるスタジオラウンジというのはどういう機能を持つのですか?
「青少年の情報交換の場として設けたオープンスペースです。いくつかあるスタジオのうち一番大きなものですが、友達同士で話してもよいし、飲食もできますし、読書してもいいです。ルールはほとんどありません。何をしてもよいスペースです。このほか楽器練習のできるサウンドスタジオ、ダンスや演劇練習のできるパフォーマンススタジオ、身体が動かしたくなれば、オープンスタジオに行って卓球やボルダリングが楽しめます。それから簡単な調理・工芸ができるクラフトスタジオもあります。」スタジオはいずれも地下2階にある。パンフレットには「青少年の『居場所』として、様々な交流や活動、情報交換を支援し、青少年の社会生活の充実を図ることを目的としたフロアです」と説明されている。
――青少年たちは夜10時まで居られるのですか?
「はい、居ることができます。ただ小学生は5時で帰ってもらうようにして、その時刻になるとアナウンスも流しています。当初、不良のたまり場になるのではないかという心配もありましたが、そのようなこともなかったですね」。
武蔵野プレイスの1階にはカフェがある。ここでは食事ができるしアルコールもサービスされている。食事をしながら歓談するもよし、お酒をのみながら本を読むこともできる。ビールが620円、コーヒーが380円、オムライスプレートが1090円といった値段。開館時間は夜10時までなので、会社帰りにここで食事を済ませてしまう人もいるだろう。最後に武蔵野プレイス像を数字からとらえてみよう。

年間200万人に迫る来館者

 ――武蔵野プレイスの来館者数はどれくらいですか?
「年間約195万人、1日平均6353人になる。多い日にはこれが1万人に達することもあります」。近隣の市区に比べると断トツの人数である。「来館者の年齢別構成は、10歳代が36.6%で一番多く、20歳代と60歳代が10%を切るほかは各世代とも10%台となっています。全世代に利用されているうえに、図書館以外の利用が多いこともうれしいですね。利用場所は青少年活動向けが10%を超えています。もちろん一番利用が多いのは図書館でして、来館者のほぼ6割が3フロアにわかれた図書館のいずれかを利用しています」。館長の話は続く。「武蔵野市には図書館が3館あって、武蔵野中央図書館と吉祥寺図書館、そして武蔵野プレイスになります。3館合わせた武蔵野市全体での住民一人当たりの貸出冊数は17.2冊(年間)です。おそらく都内では一番多いのではないか、全国平均が約5冊ですから凄い数字です」。
多くの青少年に利用され、図書館も利用されていることも分かったが、そこで気になったのは、若い人がどのような本を読んでいるのか、ということである。若い人が本を読まなくなっていることは、以前から知っていたわけなので。武蔵野プレイスだけを取り出して、どんな本が貸し出されているかは分からないが、武蔵野図書館全体の貸し出しベスト(5月―7月)を、図書館のホームページで見ることはできる。YA(ヤングアダルト)に人気のある本は、〈文学一般・日本文学〉のトップ5はいずれもエンタメ系の本ばかり。いまさら鴎外・漱石とはいわないがいわゆる純文学系はなし。〈外国文学〉では『夜と霧』『アンネの日記』『老人と海』の3冊だけが表示されて以下はなし。〈歴史・伝記・地理・旅行〉にいたっては「該当データが見つかりませんでした」と出力された。
若い人の読書調査によれば、小中高校生の読書時間調査(全国学校図書館協議会と毎日新聞社調べ)で、1か月に1冊も読まないと答えた高校生は55.8%にも及び、小学生で8.1%、中学生で15.3%だった。せっかくの子供のときの読書の習慣が身についていないことが分かる。大学生(全国大学生協連合会の調べ)は、一日平均の読書時間は23.6分、0分がなんと半分を超える53.1%もある。前に大学生から「アルバイトに追われ本を読む時間がありません」、と聞いたことがある。学費を稼ぐためにアルバイトをする苦学生なのかなと思ったが、大半の学生はスキーや旅行に行く費用を手にするためだと知って呆れたことがある。学生よ、もっと本を読もう。マララさんのスピーチではないが、1冊の本があなたの人生を変えることがあるかもしれないのだから。

芝生は緑が
――ところで正面入口前にある広場ですが、季節になると緑の広場になるのですか?
「いえ、なりません。写真にもあるように昔は緑の広場だったのですが、大勢の人に踏まれてはげてしまって、あのような状態になってしまいました。何度か緑にしようとしたのですが、もう養生はあきらめて止めました。養生するためには広場を囲って入れないようにするのですが、そうすると入れないと苦情が来ますし、放っておけばなぜ芝を植えないと言って苦情が来ます。正直いって、いまは何もしないことにしました」。取材終わって帰り道、広場を通りながら、やはりここが緑だと、ここに座って本を読んだり話をしたりできて気持ちがいいのだけれど、と残念に思った。

映画『ニューヨーク公共図書館』をみる
後日、映画『ニューヨーク公共図書館』を観た。今、進化していく図書館をみせられた。公共図書館がこんなことまでやっているのかと驚くばかりであった。上映時間が3時間25分にもなる映画で、図書館の舞台裏で何が行われているのか、長時間も気にならず興味深く見ることができた。この図書館の運営資金のおよそ半分が民間の寄付で賄われていることを知って、日米における、異なる図書館の歴史、伝統、役割、その差を生む社会の違いを考えさせられた。しかし、「青少年をいかに図書館に引きよせるか」「ベストセラーか学術書、推薦図書かの蔵書収集の基準」「デジタル化をめぐる問題」など、この公共図書館のスタッフが議論する個々の問題は、どちらにも共通しているなと思ったりもした。印象に残った言葉を一つだけ紹介すると、「図書館は本の置き場ではない。図書館は人」。人が活躍するからこそ進化が生まれる。この映画はお勧めです。まだ見ていない方は是非、ご覧ください。

                 文:鈴木英明 写真:澤田末吉+奧村森

父子 美への気もち  ― 奥村土牛と奥村森

「人間だからね、人間なんだから」

 人と関わって仕事をしていく中で間違ったり、思うように進まなかったりする時に、人を責めず柔らかく労わる言葉で、反面放っておけば安きに流れがちな己を律していく時の言葉だそうである。人として理想を掲げたとしても、振り返って恥ずべきことは役々多い。其れでも日々何かを良くしようと務める。それが「人間なんだから頑張ろうよ」なんだと奥村先生は言う。

語られることのない真実

 この記事は、これまで語られることのなかった先生の姿を描こうと思い定めた。何しろ記事を書く身にとって目の前30㎝まで大きな絵に近づいてしまって、その感想を書くようなもので至難の業である。先生と初めてお会いしたのは16年程前で、約8年前からは小さな地域のカルチャー教室「松庵舎」で講師をしていただいている。だからこの記事を書いていいのかどうかも悩むところだった。けれども。人間だから、の視点を含みつつ、憶測や噂を信じてしまうのではなく、敢えて先生が語らなかったことに大切な想いが隠されている。その事を必要な人に伝えたいと願っている。

生い立ちと家族

 先生は日本画家・奥村土牛の四男で、父・土牛は明治末期から昭和にかけて地道で真摯なあゆみを続けた画家である。昭和22年、横山大観より芸術院会員に推挙され、昭和37年文化勲章を受章。杉並区名誉市民でもある。奥村先生は昭和20年4月、土牛56歳の時に長野県臼田町で生まれた。戦中の疎開先での誕生に両親は無事に育つかと心配をし、父は早く一人前になるよう時々に諭したそうである。本格的に絵が売れはじめ、食べられるようになったのは土牛65歳頃からであり、それまでは逓信省の下絵を描いたり、大学で教えたりしていた。近所に住んでいた吉川英治が子沢山を見かねて、顔が似ているという理由だけで毎日妻に食事を運ばせ、母仁子(きみこ)の姉・森静江が職業を持ち、義弟の家族を支えた。労わりあうよき時代でもあったのであろう。けれども一途に画道に邁進する姿勢と謙虚さ、そして素直さが家族や周囲の人にそのようにさせたのではないだろうか。先生の話される土牛像に素直なところが似ているので、それが自然なことと思える。そして大成するかわからない無名な画家を伴侶に選び、文句のひとつも言わずに支え続けた家族は稀有である。一人の人が或る才能によってひとかどの道を歩めたのは、そのような環境や支えがあってのことなのである。
 とは言ってもそこは明治の人であって、昭和27~30年頃、奥村先生の小学校同級生である冨澤君が、神田川に筏を作って浮かべようと遊びに行くと、画室で黙々と描く姿が見え、「ぎょろり」とにらまれたという。奥村家で同級生と漫才をやることになった時も、他の家族は子供のやることにお愛想でも笑ってくれたのに、にこりともせず「ぎょろっ」と見つめる土牛の姿が印象的だったという。日本画家として対外的に出会った方々の印象が夫々どうであったかはわからないが、家族の前での素顔の奥村土牛はとても素直な人であった。

私たちの願い

 奥村先生は土牛の人間としての真実の姿を伝えたいと願って活動をされている。普通は親の姿を伝える事に人生を費やしたりはしない。けれども一人の画家が誕生するためには玉虫色ではなく、家族中が苦労を共にしたり、犠牲になったりせざるを得ない。画家として認められるまでの遠い道のりを信じて、プライドを保ちながら邁進し続けるエネルギーを家族が与え続けなければならないのである。世の中がどのように扱おうと、作品はそこから誕生している。だから画家や作品を見つめるためには、真実こそが大事なのである。
 番組では「門」のスケッチ旅行に母・仁子とともに同行した記憶をたどり、「素顔の土牛の人となり」から生まれた作品について解説をする。『城』と『門』。二つの作品は国宝・姫路城を描いた数少ない作品である。そのエピソードは松庵舎講座「美を楽しむ」のレジュメに詳しく書かれているから、ご興味あれば読んでいただきたいと思う。(要お問い合わせ 松庵舎)
 そんな奥村先生をインターネットで検索すれば様々な情報が混在している。この記事の前に読んだ方もいらっしゃるだろう。一番有名なのは課税評価が決まる前に素描等を焼いたエピソード等が語られる『相続税が払えない』(ネスコ)である。インターネットには多くの人々が関心を持って書籍等に当たって感想を書いておられる。ただ本に書ける事には限界もあり、残念ながら先生が本当に大切にされたことはそこには見えてこない。美術界では有名な話であり、当時問題となっていたことは評価額の高い画家の絵を相続した場合、相続税額が現実に遺族が手にする報酬よりも著しく高いことだ。つまり相続税が払いきれないということである。その為に絵が闇に四散し、芸術的な国民資産が大切にされない事を危惧して、先生は努力されたのである。
 世の中の流れに任せて正面からの解決を諦めてしまうと、状況が良くならないばかりか、人の心も堕落の道をたどってしまう。どんなに自分が苦しい時でも、何かを善くするために一旦決めると、ご自身がどうなろうと無謀でも身体を張ってしまわれる。勿論、そんな先生でも人間だから、若い頃から失敗や恥も沢山かいている。失敗多き人間が正義を振りかざすように感じて先生をアナーキストと思った人もいるし、身近な人にとっては「なんでそんなことを始めるのか、大変なとばっちりを喰うのに」と思うだろう。『相続税が払えない』はそんな経験だったはずだ。けれども最後まで意思を通して美術品の相続税制度が変わるまで粘った。ご家族の苦労はそのようなことで心癒されるとは思わないけれども、芸術を大切にする人々にとっては一歩の前進であったことには間違いない。そこに先生の芸術に対する姿勢があるのである。
 そんな奥村先生が「素直」であると言ったら、不思議に思う人もいるだろう。「一度決めたら頑固」「しぶとい」と「素直」がどのように同居するのか。先生は他人の意見を聞く事にとても素直な人である。奥村土牛は「鳴門」を描いた際、当時高校生だった先生が鳴門の渦を「これシュークリーム見たいだよ」と言っても怒らずに素直に直しを入れた。奥村先生は、若者の意見にも真剣に耳を傾け、知らないことは知らないとはっきり言える素直さがある。
 奥村先生は地域の小さなカルチャー教室である松庵舎で、専門である写真と西荻春秋を作っている「ぶらり取材体験」という講座の編集長をしてくださっている。3か月に1度「美を楽しむ」という講座で、父・土牛の画業や子供の頃から触れてきた芸術家達の姿勢を伝えるお話しをする。奥村先生との間には、芸術に対する共通の「想い」がある。作品は「芸術的な価値」を見出される前に、その画家の生き方、つまり「人となり」が生み出したものであるということである。創作に向かう時、単なる思考的構築ではなく、内面を人間的哲学的に磨いて表現を高めていくことが芸術だと思っている。その考え方を拠り所として本質を研究することの重要性と、そうして初めて真実の姿が伝わるにも関わらず、それが如何に難しいか、である。反面、享受する側のわたしたちにとって、芸術は大抵必ずしも身近なものでも優しいものでもない。画家が絵に込めたもの、働きかけてくるものは見えているものだけに留まらない。絵を取り巻く社会も真実を見えにくくする。時として天空の存在へと祭り上げられたたり、全く見向きもされなかったりする。世俗的な評価が独り歩きしがちなのは、一般的にわかりにくいものに対して、かつてはその時代の権威、現在は人気等が投機的価値を持って芸術にまとわりついていたからである。だから誰かの価値観ではなく、自身の価値観で作品を味わってほしい。
 更にはもっと純粋に、時代が変わっても普遍的な価値を見つけ出せないものだろうか。人気によって高く評価された作品でも、時代が移り変わって誰も知らない画家になっていたり、良い作品であっても評価が低く、知られることなく埋もれて消えてしまったり。美術史上重要な人物の作品であっても、現代美術の人気作家より価格が低く設定されたりする。資本主義経済の中で生きてはいても、そこを重要視しない限り、本来、普遍的価値を持っているはずの芸術が、資本主義的貨幣価値へ変換されることに一喜一憂し続けなければならない。そのことに画家や遺族たちが人生を翻弄されることは、苦悩の道だと思われる。そのような思いを共有できるのが先生である。

 画家・奥村土牛の素顔や真実を語ることは時としてそのような美術界に、一石を投じてしまう。それでも、これからは真実を語り伝えるために、牛の歩み資料美術館の開設準備を始める。職人であり「芸術」ではなかった古から、芸術に依って生きることは難しいことであった。でも未来は芸術本来の作用や営みがより幸福なものとなるよう、私たちは努めなければならないと思っている。

文:窪田幸子(牛の歩み資料美術館室長 学芸員) 写真:奥村森

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「西荻春秋」から見える「すぎなみ学倶楽部」の魅力

 区民が録音機とiPhoneやカメラを携え、杉並の魅力を取材してウエブサイトに発信する活動。その媒体名を「すぎなみ学倶楽部」と呼ぶ。
 カテゴリーを「歴史、ゆかりの人々、スポーツ、産業&商業、食、文化&雑学、自然、特集、まち別検索、写真検索」に分類して掲載している。
 杉並区には、自治体、企業、団体、個人など、数多くのウエブサイトが存在する。商店や住民などに「あなたが知っている杉並のウエブサイトは(西荻春秋調査)」と質問すると、「すぎなみ学倶楽部」は圧倒的知名度を誇る。区が運営するウエブサイトだからだろうか。2016年に10周年を迎え、掲載記事は合計1000件を越えた。イベント活動など掲載から3年経過し、取材当時から内容が異なっていると判断した記事を3年前に30%削除して、現在、我々が目に出来る記事は1050~1060件になった。

目的と組織

 国は、地域参加を推し進める方針を発表した。団塊世代が退職して自宅に引きこもる現実、グローバル化や貧困、教師が手一杯な状況など、複雑化する地域の課題を人材の育成と活用で地域民みずからが解消する目的で考案された。
 その方針を受け、平成17年度に杉並区は、区民が好意度と愛着度、そして誇りを持って住み続けたい地域と思える町にしようと、杉並の魅力を内外に発信する「杉並輝き度向上」計画の取り組みを始めた。
 平成18年4月、「すぎなみ学倶楽部」は、その施策のひとつとして設置された。当初は、現在の杉並区協働推進課の前身であるすぎなみ地域大学担当課が担った。さまざまな杉並の魅力ある情報を、区民や他の地域に暮らす人々と共有し、発信することを目的とした、区が運営する区民参加型ウエブサイトである。
 元々は、杉並区役所区民生活部に協働推進課と産業振興課があった。協働推進課から事務事業が産業振興課に移管され、その産業振興課が本庁舎から荻窪に移転して産業振興センターとなった。「すぎなみ学倶楽部」は、観光的な要素も含まれるとの考えで、協働推進課から現在の産業振興センター観光係が担当することになった。
 杉並区産業振興センター・観光係は、「すぎなみ学倶楽部」運営などの事務を特別非営利活動法人TFF(チューニング・フォー・ザ・フューチャー/代表 手塚佳代子氏)と委託業務契約を結んでいる。その中には「区民ライターとの連絡調整」の一項も含まれている。
 観光係は、2か月に1回TFFと定例会議を開き、ウエブページの記事進行状況やアクセス状況の解析などについて討議する。そこでは、同分野が重複しないバランスのよい記事構成について、「クリック数、ページビュー、滞在時間」などの評価をどのように向上させるか、クレーム対策など、広範な内容が議題となる。
 観光係の近藤係長は「手塚さんは、『すぎなみ学倶楽部』の目的を理解するプロフェッショナル。他の自治体から、『区民参加型の公式ウエブサイト発信システム』を評価して視察の申し出もあるほどだ」と信頼を寄せる。
 ちなみに手塚さんは、制作会社に勤務した経験を生かし、人と情報をコーディネートするプロジェクトマネージャーである。TFF理事に加え、杉並区郷土博物館の運営委員も務めている。博物館からの報告を承認し、意見する役割を担う仕事だという。
過去と現在の記事を比較すると、当初の『すぎなみ学倶楽部』は、どちらかと言えば硬い表現が多く、長文記事が主流だったと記憶する。手塚さん率いるTFFが担当してからは、写真を大きく文章を少なくして読み物からインスタグラム風に転換したような印象を受ける。
 近藤係長は「ウエブサイトをどうしたらよいのか、区民ライターの記事を受け入れるだけではなく、ウエブサイトは多くの人に見られなければ意味がない。楽しい方向に成長したのではないか」と振り返る。

原稿づくりの現場

 区民ライターの目線で選んだ取材先を、TFFが整理して観光係に示す。近藤係長は、「読ませる記事ばかりでも嫌になる、写真ばかりでも物足りない、トータルバランスでよいウエブサイトを作ることを念頭に選択している」と語る。
 しかし、『ラーメン』をテーマにした情報、『ゆるキャラ』が伝える人気の『なみすけブログ』、『例大祭』日程などの情報、『貞明皇后 大河原家』や『中島飛行機』などの歴史記録、このような内容は注目度が高いので連載することもある。
 掲載テーマの方針が了承されると、いよいよ取材依頼に移る。区民ライターが先方に声を掛けるのが通例だが、観光係やTFFから連絡することもある。
 杉並区のウエブサイトなので一般人は勿論のこと、『時の人』や『著名人』も取材に快く応じてくれることが多い。元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高氏も快諾してくれたひとりだという。
 公共サイトなので、原稿が特定の内容や団体に偏らないような配慮が必要だろう。また、歴史認識や思い込み記事は、異なる見解があり、事実を曲げる可能性もあるので神経を使わざるを得ない。
 また、「すぎなみ学倶楽部」にはウエブサイト多言語版(英語、韓国語、中国語)もあるので、TFFでは、翻訳しやすい文章にするため、マニュアルに基づいた指導を行っているとのことだ。
「すぎなみ学倶楽部」を開始して2~3年は、研究者たちがライターとなり、自らの責任の下で自由に原稿を作成した時代もあったと聞く。観光係やTFFの人々は何も語らないが、ブログ発行元である杉並区にもクレームが及んだに違いない。その防衛手段として、いろいろな管理基準を設けたのだろうか。

 TFFスタッフは、経験の浅い人、不慣れな人、緊張して上手く出来ない人、ルール違反する人などには、取材が終了してからでは間に合わない場合もある。手塚さん自らインタビューに同行することもあるという。

 取材当時、観光係だった江崎(えさき)さんと出雲谷(いづもたに)さんも現場を訪れることがある。そして、TFFから届いた原稿を校正する。区の公式情報サイトなので、誰が読んでも解りやすい文章にすることを重視、また、余りに難しい言葉や漢字だと修正を入れることもある。
 このように重なる修正が入ると誤字脱字や誤認は解消されるが、統制された環境の中で個性がどれだけ発揮出来るのか、ライターのやる気を最後まで持続させられるのか、それが大きな課題となる。
「すぎなみ学倶楽部」に8年間関わり、これまで約40本の原稿を書き上げたベテラン区民ライター、中谷明子さんに訊ねてみた。
「私は、『すぎなみ学倶楽部』を情報サイトだと認識している。だから食の取材で『美味しい』ではなく『風味が豊か』と書く。『美味しい』という個人の気もちは、読者の気もちではないと考えるから」
 運営者よりも規制を遵守する意識が強いではないか。関わる人たちが一体となり、ルールを守る姿が印象的だった。
 更に、取材には高度な知識が必要だ。職人、芸術家、学者など、専門分野の話題を理解できなければ取材自体が成り立たない。手塚さんは「専門家の取材は、仕事についてインタビューするのではなく、杉並で何をしているかに主眼を置いている。大雑把に見て素人が理解できる範囲でよいと思っている。取材対象者に手間をかけた分、地域情報のプロである我々は、情報提供をしてお返しをするよう心掛けている」と言う。
 我々の「西荻春秋」の場合には、ボランティア活動とは言え、適材適所の人材をインタビュアーとして採用するか、適任者がいない場合は、時間をかけて勉強してから訪ねることにしている。
「すぎなみ学倶楽部」は、「区民ライターによる取材」が絶対条件だから致し方ない着地点なのだろう。

写真撮影の現場

 写真撮影技術も取材には欠かせないスキルである。「西荻春秋」のカメラマンのキャリアは、約10年~40年以上のベテラン。それでも厳密に言えば満足な結果が得られるのは稀である。
 写真は、『思考、感性、技術』それぞれの要素が満たされて作品となる。『思考』とは撮影対象を学んで自分の撮影目的を決定する能力、『感性』とは自身の生まれ育った環境から構築される美意識、『技術』は撮影機材の取り扱いやライティング技術のことである。
 通常、専門学校では、これらの技術を2~4年かけて教育する。プロカメラマンレベルともなれば、学びきれないほどの奥深さがある。最近はデジタルカメラが普及して、誰もが簡単に写真を撮れる時代になった。しかし、それは写すだけのスナップで写真とはいえない。
 一般人のほとんどは、マニュアル撮影も可能なカメラではなく、全自動カメラやiPhoneで撮影している。ライティング技術に至っては、まったく考えもしないだろう。「すぎなみ学倶楽部」では、年に2~3回、カメラ講座を開催していると聞く。
 手塚さんは具体的な指示を出すこともあるようだ。それはやむを得ぬ究極手段だと思う。
 これら現場の状況から、区民参加型ライターの育成と対応の難しさが見えてくる。プロであれば未熟な者は、即クビにすることが可能だ。しかし、区民ライターのやる気をなくさないようにしながら、掲載可能レベルに達するまで補助しなければならないからだ。編集を担当する人達の苦労は相当なものであろうと推測する。

著作権管理

 著作権法は知的財産権のひとつで、著作権の範囲と内容について定める法律である。これまで知的財産に関して日本人は寛容だった。もめ事を嫌い、人間関係を維持するために、お茶を濁す日本人気質がそうさせていたのかも知れないが、知的財産権に関する認識の希薄さもあったように思われる。
 グローバル化が進むにつれ、誰もが権利を主張するようになった。日本特有の玉虫色の時代は終焉に向かっている。しかし、お茶を濁す意識は、変わらない、いや、変えたくない人も多いだろう。玉虫色は、ズルサもあるが優しさも含まれているからだ。著作活動では、その曖昧な気もちが著作権法に抵触する可能性もはらんでいる。
 最近は、ほとんどの人がコンピュータで原稿を仕上げる。情報入手もインターネットで簡単に取得でき、長文でもコピーは簡単だ。「コピペ」という言葉が定着するほど普及度は増している。
 現在、新聞や雑誌などの記事でも「コピペ」を数多く発見する。私事で恐縮だが、自分の著書が漫画本として無許可で使われる被害を受けた。原本を書いた者には、すぐに盗作だとわかる。著作権法違反として訴訟を起こすか否かの判断を迫られる。訴訟も地獄、黙っているのも悔しい、どちらを取っても嫌な気分になるのは避けられない。
 観光係の出雲谷さんは「著作権法などの配慮から記事に使う資料の出所は明確にしなくてはならないが、文章の読みやすさを大切にするため、挿入する場所に気を使って対処している」と語る。著作権講座も折々開催しているようだが、「コピペ」は、書いた本人にしかわからない。事実確認するのは相当難しい。これを実行する「すぎなみ学倶楽部」には、ただただ脱帽するばかりである。

「すぎなみ学倶楽部」在っての「西荻春秋」

 以前、私は「すぎなみ学倶楽部」のインタビューを受けたことがあった。それまで当サイトの名前も知らなかった。また、「西荻春秋」メンバーのひとり、窪田幸子さんも取材を受け、「すぎなみ学倶楽部」に強い関心を抱くようになった。
 私は、杉並を対象にしたドキュメンタリーブログ「西荻春秋」の編集を担当している。主なメンバーは、カメラマンやライターや学芸員を専門職とする人々、更には、それに準ずる人たちである。
 編集で難しいのは、仕事よりも人間関係である。取材先の快諾を得ても、実際にブログに掲載できるのは70%。
「西荻春秋」には決まりがある。ボランティア活動なので、取材先と記者が納得できる内容になるまで話し合い、調整が困難な場合は掲載を断念するというものだ。
 互いの意志を尊重して、どちらを選択してもよい関係を保とうと努めているが、そうそう綺麗事では収まらない。明らかに発言しているのに記事の消去を要求、更には記者の感想にまで口出しする取材先もある。
 一方、ライターは誤字脱字の校正は素直に受け入れるが、長年培ってきた人生観に触れると気分を害することもある。ある日、役所で定年退職した男性が「西荻春秋」に参加した。原稿を読むと全てインターネットからのコピー、しかも著作権を心配したのか、それぞれに転載先が記されている。まるで会議用の調査資料である。
 原稿としては成り立たず却下したが、これまで彼の人生で大切にしてきた「自分を露わにしない」という信念に触れてしまったようだ。可哀想に思えるが、怒りを収めることは出来なかった。以来、取材に慣れたプロフェッショナル、それに準ずる人材とメンバーを組むことにした。
「すぎなみ学倶楽部」は、膨大な記事をどのようにこなしているのだろう。人格の異なる区民ライターとどう向き合っているのだろう。そんな思いが何時しか好奇心に変わり、取材をお願いすることになった。
 取材を終え、気づいたことがある。「すぎなみ学倶楽部」は報道媒体ではなく、情報を媒介として杉並区と区民のコミュニケーションを構築する媒体なのだと。また、アクセス数が多いのは、単に区の看板で情報を発信しているからではなく、公共サイトでありながら世間の流行にとても敏感、考え方も柔軟でフットワークもよいから達成出来たのだと思う。
 杉並には「すぎなみ学倶楽部」を代表として、民族学的研究プロジェクトで上智大学社会学教授、ファーラ―・ジェームス氏が主宰する「西荻町学」、西荻窪の小さな情報を伝える「西荻丼」など、多数の優れたウエブサイトが存在する。それぞれが異なる目的とスタイルで情報発信している。
 私たちの「西荻春秋」は、昭和時代に脚光を浴びたドキュメンタリー・グラフ誌のブログ版と位置付けている。ブログとしては長文で事実を検証した上で、著者の意見を伝えることに主眼を置いている。写真は場面をイメージさせるツールと考え、一枚一カットを大切に撮影し、時間を惜しまず丁寧に仕上げている。

「すぎなみ学倶楽部」と「西荻春秋」は価値観が真逆のウエブサイトである。しかし、「すぎなみ学倶楽部」の存在あって、われらブログの確固たる道筋を確認できた気もする。互いに切磋琢磨して成長して行きたい。

文:奥村森 写真:澤田末吉

取材日 2016年10月25日

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

見聞・『荻窪風土記』———井伏鱒二の世界

 井伏鱒二『荻窪風土記』(新潮社、1982)は、大正の関東大震災以降、井伏が暮らした荻窪の記憶を随筆風に綴った作品である。今回の取材では、井伏が書いた『荻窪風土記』の現場の“今”を訪ね、景観の移り変わりを記録するとともに、古くから荻窪地域に住む人々に当時の様子を尋ねることで、『荻窪風土記』の世界を〝見聞″していくことを目的とした。
 JR荻窪駅は、現在では1日平均88,000人以上(2016年度)が利用する、中央線沿線でも人気のまちである。駅北口には大型のショッピングセンター「荻窪タウンセブン」がそびえ、多くの買い物客で賑わう。東京メトロ丸ノ内線の終着駅にもなっている「荻窪」は、多くの人が行き交うまちだ。
 そんな荻窪ではあるが、昭和初期にはまだまだ人家は少なく、農村風景が広がっていたという。昭和2年(1927)、荻窪に転居先を求めに来た文豪・井伏鱒二は、「麦畑のなか」で農作業をする「野良着の男」に声をかけ、土地を借りることになる。これが『荻窪風土記』のプロローグにもなっている。

青梅街道「八丁」交差点

 我々は現在の『荻窪風土記』の舞台の様子を取材するため、荻窪の「八丁」に向かった。青梅街道の四面道交差点より西側には、現在「八丁通り商店会」がある。そこでかつての荻窪の様子を知る人を探そうと、不動産屋((有)桃井山口商事)を訪ねた。ここは総業50年を越える老舗不動産屋だ。そこで、地元の町会である中通明和会の会長志村彰彦さん(81)をご紹介していただいた。そして志村さんのお計らいで、志村さんの同級生の井口清さん(81)と、松原安雄さん(89)の御三方に取材させていただくことになった。みなさん、生まれながらの〝荻窪人″である。
 まずは子どもの頃の荻窪の風景・印象についてうかがった。

まちの景色

志村彰彦さん

 「そうですね、農村ですよ。純粋な農村。荻窪駅の周りはね。荻窪駅のあたりは、後から発展したところで、実際には八丁、四面道から駅とは逆の方が繁華街だった。駅の方は家数が少なかったですよ。」(松原)
 荻窪駅が開業したのは、明治24年(1891)の12月である。なんとなく現在の常識からみてしまうと、駅の周辺こそが繁昌していたのではないかと思いがちだが、考えてみれば必ずしもそうであるはずはない。大正頃の荻窪駅は、1日に上り下りとも各9本の汽車が運行するだけでしかなく、大正3年の1日平均の乗客数は、わずか197人だったという(森泰樹『杉並風土記 上巻』)。
 一方で、江戸時代の荻窪は、青梅街道筋にあって、御嶽山登山参詣の道としてにぎわっていた。これは天保五年(1834)に刊行された御嶽神社への道中案内書である「御嶽菅笠」にある「荻久保の、中屋の店に酔伏して」との記述からうかがえる。「中屋」の場所は明確ではないが、荻窪には御嶽参詣人を「泥酔」させるような店があったのだろう。荻窪駅が開業して発展するまでは、現在の八丁商店街のあたりこそが、荻窪の中心地だった。
 荻窪駅も、現在とは全く違った様子だったという。
「俺が会社に行きだした昭和30年ころはまだ全部木造だったんじゃないかなぁ」(志村)「昔、荻窪駅は北口が無くてね。南口しかなかったんですよ。北口が出来ても、私らが若いころは、朝早く行く時や夜遅い時はね、(北口は)閉まっちゃっていて、南口にまわるしかなかったんですよ」(井口)
 荻窪駅が開設された当時は、南口だけの平屋建て駅舎だった。開設当初の荻窪駅の雰囲気は、荻窪の古老矢嶋又次氏が描いた「記憶画」によってよくわかる。北口が開設されたのは、昭和2年(1927)の春のこと。マンサード型(牧舎型)の屋根をもつ、モダンな雰囲気の駅舎だった。この駅舎の写真は写真でも残っている。昭和37年(1962)、地下鉄荻窪線(現・東京メトロ丸ノ内線)の開通に伴って、荻窪駅は地下化されることになり、北口駅舎もビルに改築されることになった。
「青梅街道も、昔はもっと細くて曲がっていたよね。」(井口)
「そうそう、昔の青梅街道はね、ずいぶん狭かったんですよ。今の道で一番わかりやすいのはね、今の北口の交番と商店街の間の道があるでしょう?

荻窪交番前

あれが青梅街道。広くしたのは中島飛行機が出来たからじゃないかな」(松原)
「(中島飛行機は)軍需工場だったから突貫工事だったんだろうね。毎晩資財を運ぶんで、戦車の音が聞こえていたよ」(志村)
 荻窪の古老矢嶋又次氏の著作『荻窪の今昔と商店街之変遷』(1976年)には、当時の青梅街道の写真が掲載されている。なるほど今の青梅街道からは想像もつかない景観である。


『荻窪の農業』(左表 杉並区立郷土博物館蔵)と矢嶋又次『荻窪の今昔と商店街之変遷』より (右写真)

『荻窪風土記』には、沢庵が荻窪での主要物産だったとある。昭和6年~8年頃、詩人の神戸雄一に土地を貸していた地主は、漬物屋だったという。
では純粋な農村だった荻窪では、何が生産されていたのだろうか。
「この辺で作っていたのは蔬菜類ですね。米はあんまり。大麦は作っていましたね。水田はあんまりなかったからね」(松原)
「米でも陸稲だよね」(井口)
「菜っ葉とかだな。小松菜なんかね。ほうれんそうとか三つ葉とか」(志村)
 昭和35年(1955)に刊行された『杉並区史』をみると、杉並区全体の「蔬菜類作付面積」は、昭和7年では馬鈴薯が167町で全体の中で一番多く、次いで大根が133.8町あった。ところが、昭和15年をピークとして、全体的に作付面積は減少していき、戦後の昭和27年段階では、40町を切るまでになっていることがわかる。
「沢庵も作っていましたよ。だいたい大根を作っていたね」(松原)
「この辺の大根も“練馬大根”って言っていましたよ。漬物は自分のうちでやっていたね。漬物を作る樽もいっぱいあって、その上に乗せる石がね、デカくて丸い、持てないような石が何百ってありましたよ」(井口)
「それの集大成が井草八幡宮に今でもある“力石”ってやつですよ」
「大根を〝矢来″にかけるまえに洗うんですよ。それを小さいころ手伝わされたんだけど、寒い時は水が冷たくてね。手がかじかんじゃった記憶がありますよ」(松原)

大根干し(清水、昭和10年頃)杉並区立郷土博物館蔵

 昭和初期の荻窪では、いたるところで矢来に大根を干した風景がみられたのだろう。杉並区立郷土博物館所蔵の写真からも、そんな風景がうかがえる。
 荻窪でつくられた農産物は、神田や京橋のほうへ出荷されたという。『荻窪風土記』にも、天沼の長谷川弥次郎さんの話として、大八車で東京の朝市に出荷する話が出てくる。実際に、御3人からもこれと同様なお話をいただいた。
「うちの親父の話でも、ここらへんから京橋に大八車で持っていったって聞いたよ」(志村)
「神田のほうにもっていくんですよ。そしたら青梅街道の鳴子坂のところには、大八車を押す人が必ずいるんです。でもそっちに卸しに行ったらね、二日三日は帰ってこないんですよ(笑)」(井口)
――――帰ってこない?
「鍋屋横丁に飲み屋がいっぱいあってね。それで帰ってこない(笑)。私のおじいさんなんかもそこにひっかかって帰ってこないから、親父が迎えに行っていたって言っていましたよ(笑)」(松原)
 なるほど、納得である。
 関連するかはわからないが、江戸時代の川柳に「新宿に 遊ぶにはこれ 妙法寺」という句がある。江戸の人たちは西の堀ノ内妙法寺に参詣に行く「ついで」に、当時から盛り場だった内藤新宿に遊びに行ったという。江戸時代から、杉並地域の人たちは江戸に野菜を卸していたというから、西の人たちは仕事の「ついで」で遊ぶことを楽しみにしていたのかもしれない。つくづく、人は遊びたがるものである。

井口清さんと松原安雄さん

昭和初期の子どもたち

 続いて、子どもの頃の遊びの話についてうかがった。
―――虫切り―――
「〝虫切り″をやっていたおじいさんがいましたね。虫切りっていうのは、子どもの疳(かん)の虫を封じるというまじないのことでね。手相のすじをちょんちょんときるんです。そうすると赤ちゃんの夜泣きが治るっていう」(松原)
「虫切りの日っていうのは、日にちがきまっていて、そのおじいさんは立川のほうから電車で来るんです。荻窪駅を降りて、ちょうどうちの前を通るんだけど、子どもを何人もつれて歩いて来るんですよ。あぁ、虫切りの日だっていってね。そのころになると4、50人くらい連れてあるいていましたよ」(井口)
 “虫切り”は“虫封じ”とも言われる疳の虫封じの呪法で、民間信仰(療法)のひとつである。かつては親を悩ませる子どもの夜泣きは、一つの病気であり、体内に宿る虫が子どもの疳を起こすという考えがあり、いろいろな療法が行なわれていたという。
―――木登り―――
「私がいちばん覚えているのは、木登りの記憶ですね。このへんのガキ大将がいてね、木登りをするんですけど、私だけ木に押し上げられてね、それで気がついたら誰もいない(笑)。ワーワー泣きましたよ」(松原)
 子どもがやんちゃなのは今も昔も変わらない。ずいぶんとひどいこともする。
「木登りといえば、柿の木に上って、生っている柿をとってよく食べたよ(笑)」(井口)
「そうそう。でもお母さんに「ダメだよ」って言われるから、下からみえるとこだけ残して上の方だけ食っちゃう(笑)。お母さんは上ってこないからね。下からみたら食べられているってわからない(笑)」(松原)
「あの頃はみんな腹が減っていたから、みんな柿をもっていっちゃうんだよね」(志村)
 とてもユニークなエピソードである。子どもたちもいろいろと考えるのだ。その柿は、結局最後はどうなったのだろう。
「木に登るとね、いまみたいに高いビルがなかったから、富士山とか、秩父の山が綺麗にみえたんですよ。もう全部目の前にみえるような感じでね」(井口)
―――魚獲り―――
「妙正寺の川で魚すくいにもいったね」(井口)
「鮒・ドジョウね。あとは〝赤べったん″。タナゴのことね」(志村)
※森泰樹『杉並の伝説と方言』では、「あかんべえ=たなご」という方言が紹介されている。
「あとは〝えびがに″がいくらでも獲れましたよ。バケツ一杯とかね」(井口)
――えびがに?
「あれはアメリカから来たんじゃなかったかな」(松原)
 どうやらアメリカザリガニのようだ。近年では生態系を崩す〝外来種″として問題視されているが、昔も今も子どもの遊び相手だった。ちなみにアメリカザリガニが日本に輸入されたのは昭和2年(1927)だというが、みなさんの子どもだった昭和10~20年代頃には、既に杉並にもたくさん定着していたのだろう。
「台風の翌日なんかになると田圃が冠水しちゃってね、そこに鮒なんかがいっぱいいたよ。ナマズなんかもいましたね」(志村)
―――動物の思い出―――
「イタチもいたね。物置の下に巣をつくっちゃって。かわいいんだよ。あとはフクロウもいたな。このへんに杉林があって、夕方鳴いているのを聞いたな。」(志村)
「戦後はヘビなんかも多かったですよ。小さいころのある晩に、私一人で八畳の部屋に寝ていたんですね。そしたら夜中に〝ぱたん″って音がするの。で、ふと上をみたら梁(ハリ)の上にヘビがいたの。1メートルくらいあるデカいやつ。昔は囲炉裏を使ってたんでね、囲炉裏の熱で、そこが暖かかったからか居ついちゃっていた」(松原)
―ギョっとするエピソードですね…。
「ヘビなんかはね、とりにいって、焼いて食ったよ(笑)。シマヘビね。あとは高校生くらいのときにね、いたずらでヘビをポケット入れて、女子のとこいってねそっと見せて脅かしたこともあったよ(笑)。まぁ今だったら問題になっているだろうね(笑)」(井口)
「アオダイショウはね、2メートルくらいデカいやつもいたよ。」(松原)
 都市化が進んだ街中では、あまり生き物を見なくなった気がする。かつてはもっと生き物(ペットとして買われたものではない野生の生き物)と共存していたし、子どもたちの遊び相手でもあった。…もっとも、ヘビ嫌いな私としては、2メートルのアオダイショウはごめんではあるが。

戦後直後のくらし

「このへんは芋畑も多くてね。終戦直後はサツマイモを作っていました。「茨城一号」とかいってね、大きいの。そんでね、まずくて食えたもんじゃない(笑)。それを供出に出していましたよ。それでも芋泥棒も多くてね。番小屋をたてて、親父と交代で番をしていました。ある晩、私が先に番をして、家へ帰って寝ていた時に、「来たぞ!」って親父に呼ばれてね。で畑に行って、囲むようにしたんだけど逃げられちゃった。そんなこともありましたよ」(松原)
 終戦直後は治安もあまりよくなかったという。
「このあたり、街路灯が無かったころは、追いはぎが多かった。終戦後。うちにも近所のおじさんが飛び込んできたことがあった。“助けてくれ”って。終戦後は怖くて道が真っ暗で歩けなかったよ」(志村)
「このへんだって街灯なんかなんにもなかったからね」(井口)
――闇市――
「駅の北東方の辺り(現:インテグラルビル付近)はみんな闇市でしたよ」(志村)
「タウンセブンのところもね」(松原)
「そう、バスターミナルのところも全部闇市でしたよ。昭和30~40年ころに火事があってね。それで焼けちゃって変わっていった」(志村)
 戦後復興から高度経済成長のなかで、荻窪駅周辺の様子は劇的に変わっていく。それは戦後の苦しい時代を、必死で生きていった人々の記録でもある。
「タウンセブンとかあるところは、ついこの前まで木造のマーケットだったからね」(井口)
 現在では荻窪のまちを象徴するデパートでもあるタウンセブンビルは、荻窪新興商店街周辺の再開発として、昭和56年(1981)の9月に完成している。こうして荻窪は東京屈指の人気のまちになっていくのである。

『杉並区史』より

お話をうかがって

 昭和初期、荻窪は純粋な農村風景だった。そこから約一世紀をかけて、荻窪駅とその駅前の風景は、劇的に変わっていった。今の風景からは考えられない“風景”を、お話から見ることが出来た。
 杉並区の人口は、現在では56万人を超えている。それも、戦後から高度経済成長期にかけて、急激なカーブを描いて人口が増えているのである。今まちに住む多くの人は、風景が劇的に変わった後に、荻窪の外から移り住んできた人たちである。ひと昔前の荻窪の風景を知る人は、少なくなってきている。
かつて、こんな風景が荻窪にはあったのだ。お話をこうして残すことで、少しでもその風景を残すことが出来れば良い。
文責:駒見敬祐
写真:窪田幸子
資料提供:杉並区立郷土博物館
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