月別アーカイブ: 2019年4月

 昭和の文化人に愛された「たみ」 

及川ヤスエさんの人生

 福岡から上京してきた姉妹が紡いだ物語。
 西荻窪の居酒屋「たみ」と国立の「関民帽子アトリエ(現atelier Seki / アトリエ関)」。東京という文化の中心地に飛び込んで夢をかけた二人の物語がここにある。
 
 西荻窪駅南口から銀座通りをすすみ、郵便局の反対側の路地をまがると「たみ」はある。この辺りの店は概してそうなのだが、昼間はひっそりと目立たないのが多い。夜になるとトマリギ的な雰囲気を醸して客を魅了する。たみはそのなかでも更にひっそりと佇んでいる。
 入口の扉を押すと、視線は自然、お客の背を飛び越えてヤスエさんに向かってしまう。言葉を二、三交わしてから席に落ち着いて、おもむろに相客に挨拶をする。そんな雰囲気なのである。ふらりと店に入ってきてはおのおのカウンターに座って一人酒を傾けながら、及川さんと掛け合い話、と思うと隣、はたまた遠く離れた席とも飾ることなく議論に花を咲かせる。相応しくない客はそこにはいない。
 
 平成二四年の桜の季節。ヤスエさんは引退した。
 

 

 この街には多くの“西荻らしい”と云われる店が或る。「西荻らしいとは何か?」と問うと「温かそうでつめたいまち」そう答えが返ってきた。人間、文化芸術を縦横に織込んだ「たみ」は一体どういう場所だったのだろう。
 
「こけし屋はリベラルだけど、うちは左の方が多かった。みな神経質だけれど、優しい。人を傷つけたりしないけれど信念を持っている。広い街で寂しかったから」お酒の飲めない者が脚をむけても受け入れて、良心的な値段だったのはそのようなことだったのだろう。「博識ですね」とむけると「みなお客様が教えてくれた」そう返された。
 
 北朝鮮新幕生まれ。敗戦の年、ヤスエさんは一七歳で38度線を歩いた。祖父、金子さんが家族とは別の女性を連れて大陸に渡った。どんな汽車も泊まる駅で旅館を開き、家族を故郷から呼び寄せた。朝鮮の人を使用して生活の苦労のない少女時代を過ごしたという。女学校では教室の半分は朝鮮の人で当時は日本名を使用していた。勤労奉仕で松根油を取るための根を掘ったが、暫くして身体を壊し、慰問袋を縫うようになる。
 玉音放送を聞いた時、音が大小して判らず、兵士も「がんばろうということだ」と鼓舞した。一二歳、としの離れた姉の民さんは、当時学校の先生をしていた。父はモダンボーイで玄関先に帽子を引っかけたり、ダンスを積極的に勧め、ホールで踊ったりした。お金が出来て、従兄弟も呼び寄せ学校を出してやったりもした。
 大陸で育った強さが姉妹にはあった。
 
 引き揚げは過酷なものだった。お金で案内を頼んだが裏切られたり、「休み」と言われて寝てしまい、気付いたら独りぼっちであった。泣いて何時間過ごしたかわからない。親が探しに来てくれなかったら売られていたかもしれない、と云う。
 
 引き揚げ後、九州の久留米で洋裁の勉強を始めた。父の友人が「勉強するなら東京に行きなさい」と云うので一九四七年姉妹は東京へ出る。姉の民さんが皇后さまの帽子職人でもあった平田暁夫(二〇一四年八九歳にて死去)に師事する為、姉妹は西荻窪に住まう。そして修行中の生計を立てるために社交好きの民さんがガード下で「たみ」を始める。当時珍しい九州の本物の陶磁器を置く店として文化人が集まるようになった。しかし数年を経ずして芸術家、関頑亭氏と結婚。国立に引っ越してしまう。未だ二〇代で「たみ」を引き継ぐことになったお酒も飲めないヤスエさんを心配した常連客が“七人の守り人”となった。
 
 店は何回か改装をしており、東京オリンピックの年に現在の場所に移転した。ガード下の店を改修した早稲田の有名な建築家、飯田さんの設計によるもので今とは全く異なる山小屋風。入口も現在とは逆の右側で二階にはヤスエさんが住んでいた。七人の守り人は心配して、飯田さんにかわるがわる質問をする。最初は「いらっしゃいませ」も言えなかったヤスエさんが、やめようと思わなかったのは、人と話すことが苦でなかったこと、お客様の存在が大きかった。「お客様に育てられた」と云う。
 現在の店構えは同じく早稲田の建築家、安田与佐氏によるもの。リニューアルは設計だけでなく、暖簾から飾る作品に至るまで徹底して監修。照明は現在の場所に移ってから今日まで近藤昭作氏。のれんは古田重郎氏、マッチは大歳克衛氏のデザインであった。
 ヤスエさんにとってお酒は二の次で奥様をなくされた方、境遇の話がしたい人、自慢話がしたい人、話が大事だった。お酒を出したくない客が来ると「出すお酒がないんですよ」云う。相客が「出してやってよ」と云ってもしらんぷり。外でお客が「ばかやろー」と叫んだりした。
 そんなヤスエさんを支えたのはどんなご主人だったのだろう。及川さんはサラリーマンだったが義姉、及川道子さんは昭和一三年、二六歳で早折した著名な女優であった。家風がとても優しかったと云う。

 

 ヤスエさんはいま、帽子アトリエ「関民」で姉民さんのお弟子さん達、約十名の作品に囲まれて店番をしている。帽子作家として有名になった民さんのお店は、国立駅から斜め右手にまっすぐ進む道を左に折れると、その趣或る佇まいが目に飛び込んでくる。
「私だけの帽子」を探しにおとずれてみてはどうだろう。

参考文献
更谷いづみ著 『帽子作家 関民 Tami’s Spirit ‐こころが動きだすヒント‐』
Izumaqui 2011年
atelier Seki / アトリエ関(旧:関民帽子アトリエ)
ホームページ http://atelierseki.jimdo.com/
住所:東京都国立市中2−2−1
電話:042-574-1771
営業日:月、水、金曜日
定休日:不定休
営業日&営業時間は毎月異なります。お問合せください。
文章 窪田幸子
写真 澤田末吉
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時計修理一筋人生の村田規晥(ノリキヨ)さん

井草 村田時計工業所 村田規晥(ノリキヨ)さん

 初めてお会いした時、ワイヤールーペをつけて迎えてくれました。かたときもこのルーペを離さず過ごされているのではないかというのが第一印象でした。
 

 村田さんは81才になります、まだまだ元気に第一線で活躍しております。特別に何か健康法をしていますか?と尋ねますと「いやなにもしてないよ」との返答です。時計に向かって仕事をしている時が一番の健康法ではないでしょうか。
 村田さんは山梨県大月市でお父さんが営む時計修理の家に生まれました。時計の修理だけではなく、蓄音機やラジオの修理も引き受けてご近所からとても重宝で喜ばれていました。小学生のころにはお父さんの仕事を見て機械に興味を持ち、時計や蓄音機のゼンマイの交換をみよう見まねで行っていました。中学生になると自分で5球スーパーラジオを組み立て、「初めてスイッチを入れた瞬間シューツと音が鳴って声が聞こえた時は嬉しかったな~」と懐かしんでいました。
 

 その後専門学校のラジオ学科に進み、ラジオの仕組み、原理を学びました。当時父は“経験と感”で故障の原因を見つけて、修理をしていたが、自分は故障の原因を理論的に把握し修理ができて、設計図が頭の中に入っていた。自分でオリジナルのラジオを作り100台ほど売ったよと話していました。
 その頃、兄も時計修理の仕事をしており、初任給が16.800円の時代に月10万円を稼いでいるのを聞いて、自分もやってみたい、その道に進もうと決意しました。バラバラの部品を組み立て完成させる仕事です。普通は一日頑張って20個位でしたが、村田さんは40個仕上げました。何よりも達成感、満足感を満たす事ができ収入も10万円ほど稼ぐことができたそうです。
 そこから修理専門の仕事に進み、多くの同業の方やパーツメーカーの方と人脈が広がっていきました。後に独立してからどんな部品でも入手できるようになったのは、この頃の人脈のおかげですと話していました。やがてメカ時計(機械式)からクォーツ時計の時代に移っていきます。クォーツの時計では長年培ってきた技術は生かせず仕事の量は減っていく事になりますが、あくまで自分の技術を生かしたいと四六時中仕事に没頭できる自宅に時計修理の部屋を作り、村田時計工業所としてスタートしました。その時、銀座の大手時計会社の指定工場になり修理に必要なとても高額な機械、道具など支給していただき強い信頼関係が生まれたと話していました。
 

 今は正確な時間を求めるのであれば、電波時計やスマートフォンでいいでしょう。でも自分しか持っていないアンティーク時計、高価なファッション時計やステータスのブランド時計などまだまだメカ時計の愛用者は多くいらっしゃいます。これからも自分の技術は生かせる時代は続く、とにかく時計が好き、どんな時計でも直す事に喜び、生きがいを感じる、リタイアなど考えた事はない仕事ができるうちはいつまでも続ける、と笑顔で語りました。
 村田規晥さんは此の八月にご逝去されました。心より御冥福をお祈り致します。
 
文 冨澤信浩
写真 奥村森
 
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「てんぷら矢吹」 この道60年

 最初に揚げたての車海老を口元にはこんだ瞬間、何とも言えない香りを感じました。「ワァー、これは…..」。もう言葉がありません。皆さんもぜひ、「てんぷら矢吹」に足をはこんでみてはと思います。
 

      

修学旅行での感動

 矢吹恭一さんは神戸で生まれました。中学の修学旅行で東京に来たとき、自由時間にお兄さんの働く銀座「天一」を訪ねました。そこでご馳走になったてんぷらに感動しました。自分もこういうてんぷらを作りたいと強く思い、卒業後上京して「天一」で働くことになったのです。新入りは自分ひとり。朝から晩までだいこんをおろした日、つらい事やくやしい思いもしました。「いろいろありましたが今はそれが全て役にたっています」と笑顔で話しました。19年修行して、独立は35歳のとき。「天一時代、とても懇意にしていただいたお客様が、骨を折ってくれました。その方との出会いがなければ今の自分はなかったでしょう。」と、とても恩義に感じていらっしゃるようすでした。
 

「店を出せばお客が来るというものではない!」

「天一」創業者の言葉です。高井戸には、同業のお店もたくさんあります。1年半位は苦労しましたが、お客様がお客様を紹介して、経営も軌道に乗ったそうです。「口伝えで少しずつ軌道に乗って行きました、お客様のおかげです。本当にお客様に感謝しております」と当時を振り返りました。
 

 自分の作ったてんぷらに合うお酒にも深いこだわりがあります。いま出している日本酒は「玉の光」「羽黒山」、ビールは「キリン一番搾り」。お酒の話題になると、矢吹さんの顔もほころび話が弾みます。
「人気の銘柄で入手困難なお酒でも絶対に品切れをおこさない、てんぷらとお酒を楽しみに来られたお客様に『お酒が切れています』ではガッカリされるでしょう。こんな失礼はありません」。と、少し強い口調になりました。

労を惜しまず、心、からだで伝える

「労を惜しまない」。これがてんぷら矢吹のモットーです。いつもこの姿勢を忘れずにまな板と鍋の前に立ってきました。現在は、サラリーマンを経験後、料理学校に通った息子さんと二人で店を切盛りしています。もちろん、カウンターの中では息子 優行さんもてんぷらを揚げます。
「将来は息子にとの思いはあります」と話していましたが、75歳の矢吹さんはとてもお元気です。てんぷら一筋の人生はまだまだ続くことでしょう。

てんぷら 矢 吹

住所:東京都杉並区高井戸東3-28-24 ドムス高井戸1F
電話:03-3334-0070
営業時間:11:30~14:00  17:00~21:00
定休日:毎週水曜日、木曜日(定休日が祝日の場合は営業します)
* 定休日の情報は2017.1.11に確認、変更させて頂きました。
・京王井の頭線 高井戸駅下車 環八を北へ徒歩8分 環八井の頭交差点を右へ井の頭通りを永福町方面へ50m右側
・JR荻窪駅南口 バス4番乗り場「芦花公園行」下車10分 バス停「井の頭通り」下車1分
・駐車場4台
文章 冨澤信浩 協力 岡村繁雄
写真 奥村森
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和菓子の 「三原堂」 ー顧客に愛されて80余年

西荻北 「三原堂」 三代目当主 田中好太郎さん

 西荻窪駅北口を出て北銀座通りに向かう。三井住友銀行を右手に見ながら少し進むとローソンの丁度向かいにあるのが三原堂である。
店内に入ると季節の生菓子、最中、おせんべいなどが目に飛び込んでくる。お客様もひっきりなしである。買い物帰りの年配の女性、片手にコーヒーを持った若い男女のカップル、注文の品を取りに来た中年の男性と、老若男女幅広い客層に驚かされる。

祖父が新潟から上京し、西荻に出店

昭和30年代半ばの写真 一番左が創業者である祖父の吉雄さん。その隣が吉雄さんの妻である好野さんと従業員の皆さん。日本一の槻(けやき)看板「横幅9尺、高さ3尺2寸、厚み2寸、重量65貫目 昭和27年制作」 看板に歴史あり

西荻の三原堂は昭和10年創業。西荻で二番目に古い和菓子屋である。現在の三代目好太郎さんの祖父吉雄さんが店を構えた。吉雄さんは新潟県小千谷市出身で農家の次男坊。大正初期か中頃、東京に出て四谷の三原堂で丁稚奉公を始めた。(現在でも人形町に本店を構える三原堂は明治10年創業で、その支店が当時は四谷にもあった。)
その後何年か働いて独立し、暖簾分けされる際、場所は幾つか候補があったが、最終的に吉祥寺と西荻窪に絞った。「うろ覚えなんですが、三鷹の方にお客さんがいたらしく、祖父は電車あるいは歩きでこの辺りを通ってたんですね」
「昭和8年に、幾つかの候補の一つであった旧井荻村(現在の西荻一帯)が区画整理されたんです。隣の高井戸村は田んぼの区画割そのまんまなんですが、旧井荻村は碁盤の目のような区画割で、おそらく住宅の誘致も始まっていた頃だと思われます。お役人さん、今でいう公務員ですね、それから初期のいわゆるサラリーマンが移り住んで来ると思ったわけです。農家の場合は自分の家でお餅をつくけど、彼らはお餅を家でつかないので、和菓子の商売にはいいのではないかと考えたようです。当時は店のそばの信号から北側の向こうにある本町会商店街(今の100円ローソンより北側)が西荻の中心地だったので、ここから南の駅までの間は何もなかった。しかし、これからは駅に近い方がいいということで駅前に店を構えたんですね」

祖父はマメで好奇心旺盛な人

創業当時の大福帳が今でも大切に残っている。「初日が金105円。昭和10年頃の物価でいくと現在の30万円位。開店のご祝儀もあったかもしれないけど売り上げは結構良かったんですね。他はもっと少ないですけど。」と三代目の好太郎さんは笑う。

大福帳と当時のスタンプカード 謝恩券

昭和10年の年末のお餅の注文票もある。「関根町、今の上荻4丁目ぐらいだと思うんですけど、中野区の上高田、井荻、松庵、結構三鷹の方まであるんですね。他にお店がなかったんでしょうね。だからそういうところまで配達に行ったんですね」
昭和11年のスタンプカードも見せていただいた。当時としては斬新である。「30銭お買い上げで一個捺印。今でいうと\1,000で一個捺印。\15,000お買い上げで映画券が一枚付いてくるぐらいのもの。結構割がいい。その頃の映画館って高かったですよね。今でいうとディズニーシーの入場料くらいの値段ですよね。」
昭和12年頃の新聞の切り抜きを切り貼りしたものも結構残っているそうだ。創業者の吉雄さんは好奇心旺盛で、東京のどこかでこういうセールをやってお客さんが集まったとか、アイスコーヒーの作り方とか情報を熱心に集めていたそうだ。
長年愛される理由は手作りの味

「和菓子も大手さんとかはオートメーション化をしたり、便利な材料ができたりした時代があるわけです。売り込みもあるわけです。機械でお饅頭が作れますよとか、これ入れれば一日しか持たないのが一週間持ちますよとか。でもうちはやらなかったです。昔ながらの手作り。かなり面倒臭いですが、端折らないでというのを今でもやってます。その味を西荻のお客さんがわかってくれるんじゃないかと。それで続けていけてるんじゃないかと思ってます。」
大切にしているのは素材、手間、技術

「お菓子を作るポイントを挙げると昔から素材、手間、技術という感じですかね。素材は安心できるものと昔から使っている材料を守るようにしています。手間は省かず。例えばお餅。機械に頼らず手でこねることにより味が全然違います。そういうところを省かない。技術は職人さんが持っている技術。綺麗に美味しそうに見えるようにと。」

初代吉雄さんが作成した季節のお題目ノート。職人さん達がこの題目にヒントを得て思い思いの季節の和菓子を創作したというアイディアノート的なもの。

三世代にわたる顧客

昭和47年頃の写真 鳥一の隣にあった頃、かしわ餅を求めて並ぶお客様

「西荻窪の和菓子屋さんは完全に住み分けができていてバッティングはしません。顧客は代々西荻の方が多いです。西荻はまだ三世代家族が多い。おばあちゃんからお子さん、お孫さんに引き継がれています。」
「デパ地下に入っているお菓子は人にあげるもの。うちのお客さんは自分で食べるために買いに来るので手を抜いたら怖いですね。例えば支店を出して、そこでもまた売るというほど作れるかというとそれだけの量を作れないです。今がちょうどいいくらいで、どんと売り上げを伸ばすとかそういうことは考えてないです。」

三代目当主 田中好太郎さん
三原堂のパッケージデザインは全て粛粲寶(しゅくさんぽう)によるもの

*粛粲寶は(1902~1994年) 享年93歳。新潟の生まれで、のちに東京に住して洋画を黒田清輝に、日本画を小林古径に学んだ。花鳥、静物、人物画を得意とした日本異色画家と呼ばれる。
サラリーマン時代はマーケティングに携わっていたという好太郎さん。お客さんが何を求めているのかをきちんと受け止めて、昔ながらの味を大切に守り続けていこうとしている。
店頭で年配の女性が言う。「うちは両親の時代からここなの。だからどこに何があるか見なくてもわかるのね。今日は孫に頼まれておせんべいを買いに来たのよ。孫はここのおせんべいが好きでね。」
西荻で三世代に亘り愛されている三原堂。その原点は創業以来、今も脈々と受け継がれているのである。

西荻窪のお店には文化人のエピソードが残る場所がある。写真は山下清と彼を支援する三原堂支店主の奥様方。店内には作品集と画が飾られている。

三原堂
住所:東京都杉並区西荻北3-20-12 グラツィオーソ 1階
電話: 03-3397-3998 FAX: 03-3397-3997
営業時間:9:00~19:00
定休日:日曜日
JR西荻窪駅 北口 徒歩1分
信号を渡り『喜久屋』より4軒目左手『ローソン』の向かい。
文責 小野由美子
写真 澤田末吉
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天草の夢を靴づくりに託して

それは路上の靴磨から始まりました

 注文靴の製作と靴と鞄を修理する天草製作所は、西荻の乙女ロードにあります。この店のオーナー、西森真二さんは熊本県天草生まれの47歳、青年のように若いです。彼は、福岡県の大学を卒業して東京にある広告代理店に就職しました。いつかは一国一城の主になりたいという夢を抱きながら10数年間、その代理店で営業の仕事に従事しましたが、「このままでよいのだろうか」ともやもやした気もちで日々過ごしていました。「もう一度、足元から自分を見つめ直したい。路上で靴磨をすれば、見えるものがあるかも知れない」と決意、それを実行に移しました。37歳の時でした。

出発地は中目黒駅のガード下、そして試練の時を迎えます

「会社を辞める際、社長からこれからどうするんだと尋ねられました。靴磨きをしたいと答えると、頭がおかしくなったのかと嘲笑されました。両親からも、どうしてそんなことするのかと心配されました」
「これまでの経歴やプライドを捨て、誰もが望まない路上での靴磨きをすることで、己の固定概念に囚われる殻から脱皮できるのではないか。その時は、まだ独身だったので決断できたのだと思います」
「場所は中目黒のガード下、怖さと恥ずかしさから逃れるように無我夢中で靴を磨いていました。そんなある日のこと、お客様からこの靴いいだろうと言われました。しかし、どこがよいのか判断がつきません」
「 そんなことも理解出来ないで、靴磨きは続けられないと考え、浅草にある靴の専門学校に通い始めました。靴の構造や革の種類や特性に関する知識が高まるにつれ、物づくりの面白さにのめり込んでいきました」
 

 

今の夢、New Yorkに店を開きたい

 


「店名を天草と命名したのは、故郷天草の名に恥じない仕事をして大好きな天草を大事にしたいという思いからです。オープンして3年目ですが、店の看板を見て熊本県出身のお客様が沢山来訪して下さいます」
 「帽子にもNew Yorkと書いてありますが、ボクってミーハーでNew Yorkが好きなんですよ。この店のデザインもNew Yorkにあるような店づくりにしたいとこだわりました。何時の日かNew Yorkに店を出したいという希望もあるので」
 「西荻には個性的な店が数多くあり、自分の店づくりのイメージにはピッタリな場所です。お客様から革細工や靴づくりの教室を開講して欲しいという声もあるので、この街ですることはまだまだあります」
 

 

 

 

お店は常に整理整頓、清潔をモットーに

 

「オーダー靴はかなり高価ですから、妥協や中途半端は許されません。一足作られてから2カ月後にもう一足頼むと来られるお客様もいます。本当に有難いと感謝しています」 店内には、靴注文と靴や鞄の修理受付窓口だけでなく、手縫いのペンケースや子ども靴などひとつひとつに西森流のこだわりを込めたレーザーグッズが整然と並んでいます。

 

 

 

 

 

 
「今スタッフは、妻の麻里を含めて4人で切り盛りしています。スタッフの中には、将来自分の店を持ちたいとの夢を持っている者もいます。自分と思いが一緒なので応援したいと思います。店は子供、スタッフは家族のようなもの。スタッフも店のコンセプトを理解して積極的に意見を言ってくれるので嬉しい、自分の店だから自分が正しいのではなくスタッフ全員の店でもあります、人も育てたい、チャンスには何時でも動くことが出来るように攻めの姿勢でいたいと思っています」

 

 

 

西森真二さんの夢は、まだまだ大きく広がります。西森さんの天草の青年のような気もちが震災で落胆している熊本の方々に届きますように。
天草製作所
天草 〒167-0053 東京都杉並区西荻南2-7-5
天草 Tel & Fax 03-3334-6822
天草 E-mail:info@amakusafactory.com
天草 URL:www.amakusafactory.com

 

西荻窪南口 アーケードを抜けて乙女ロード徒歩5分左側
営業時間:10時~20時(日曜日、祝日~19時) 定休日:水曜日
 

 

文章 冨澤信浩
写真 澤田末吉
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緩やかな時間が流れるジーンズショップ 「オークランド」

西荻窪駅の南口を出て、ピンクの象さんで知られる仲通り商店街に入る。その右手、象さんの横にあるのがオークランドである。
 
店に入ると心地よい音楽が流れ、どこかリラックスした雰囲気が漂う。カジュアルな衣料と共にジェームス ディーンのポスター、古時計、そしてラグビーボールが目に止まる。
 
店主は二代目の多田裕昭さん。裕昭さんの父、貞蔵(ていぞう)さんがアメリカの中古衣料を扱う店をここで始めた。昭和26年のことである。裕昭さんが生まれた年だ。今年で65年になる。
 
貞蔵さんは山形から上京し、苦学して蒲田の工業高校を卒業した後、東京の会社に職を得た。そして戦後すぐ、貞蔵さんの兄が呉服屋をやっていた西荻窪の今の場所に移り住み、商売を始めた。

アメリカの中古衣料が出発点。お店は繁盛しました

「戦争が終わってあまり着るものがなかった時代だったんですね。アメリカの中古衣料をこっちへ送ってきて、洗い場に行って洗ったり、プレスしたり、直したりしてお店に出していました。今では中古屋さんは多いですけど、その頃はそんなになかったのでお店は繁盛していました」
 
朝は9時くらいから夜は11時まで働き、お店を閉めてからも値札をつけたりして、夜中の1時くらいまで裕昭さんのお母さんたちは働いたそうである。
 
「西荻の店をやっていた私が小さかった頃、バザーといって宇都宮だとか日本各地の体育館にトラックでいろいろな品物を運んでは売っていました。品物がない時代だから物凄く売れた」
 
「西荻の店では従業員含めて12人くらい寝泊まりしていました。開店して間もない頃、オープンリールと言ってテープデッキなんて珍しかった時代、大きなテープに案内を録音してトラックで街を廻って、体育館でバザーをやってたんですね。だから、ちっちゃい頃はほとんど家に居なかった。帰ってくるといろいろな玩具をいっぱい買ってきてくれましたね。相当なワンマン社長でしたが、涙もろくて熱い人でした」
 
西荻の店が好評で、山手線の大塚の駅前と、荻窪(現在のタウンセブンの地下に当たる場所)と合わせて三軒の店を構えた。また別荘を千葉の御宿、そして山形の蔵王のそばに持ち、夏は御宿、冬は蔵王と、裕昭さんは夏も冬も真っ黒になるほど色々と連れて行ってもらったという。
 

父は武道が好きでした

「父はもともと剣道とか柔道など武道が大好きでした。高井戸第四小学校というところに僕達(裕昭さんは姉、裕昭さん、妹、弟の四人兄弟)は行ってたんですが、そこでPTAの会長に就いたのがきっかけとなり、剣道教室(尚武会)を始めました。それが今年で50周年を迎え、今では大会で優勝するようになりました。居合は段を持っていて、明治大学(白さぎ会)で教えていました」

昭和48年、ジーンズだけを扱うお店に。そして一番忙しい時期を迎える

「昭和48年、僕が学校を出たくらいからジーンズだけのお店に変えました。その頃はエドウィンとかビッグジョンとか日本のメーカーがどんどん出始めた時です。昔、エドウィンの常見さんという社長さんとお友達で、一緒にやっていた関係でジーンズだけにしたのです。その当時はね、ジーンズブームということもあり、大学生がアルバイトをさせて欲しいと随分来てましたね。この店もアルバイトが沢山いました。大塚の店も含めると、一番多い時には20人くらいいたのかな」
 
「僕が大学を出る頃はジーンズが日本中流行っていました。丁度その頃、ベトナム戦争が終わってアメ横で軍隊の払い下げのカーキ色のジャケットを売っていました。アメリカで安く仕入れて日本に持ってくると、ものすごく売れたんです。いろんな階級章が付いていたりして。それがその当時の反戦運動の象徴でしたから、多くの人が買いに来ました」

自然な流れで家業を継ぐことに

「僕は教職をとって先生になろうと思っていました。だけど、当時学校に行っても、教室に全学連が入ってきて授業が中止になり、ちゃんとレポートを提出すれば教職課程も取れたんだろうけど、お店が忙しいので手伝わなきゃどうにもならない状況でした。そうして自然に家業に携わるようになりました。大塚の店は人が少なかったので大変でした。カレーうどんが好きで出前を頼んだのですが、忙しくて食べる暇がない。夕方にやっと箸を入れると、そのままカレーうどんが持ち上がったということがありました」
 
「昭和57年に、新婚旅行でニュージーランドに行きました。ラグビーがとても好きだったので、オールブラックスの国に行ってみたかったのです。その時にオークランドという町に行きました。とても綺麗な街でした。その名前が今の屋号の由来です。アルファベットの木工文字を買ってきて、それとニュージーランドの国鳥であるキーウィーを元に自分でアレンジしました」
 
「オークランドと命名するまではつるや貿易という名前でした。昔ジーンズのお店はみんな何々貿易っていう名前を付けてたんですよね。うちも法人名としては残っています。屋号はオークランド。昔僕が小さい時はアメリカ屋という屋号を使ってました。アメリカ屋は昔、ジーンズショップの総称みたいな感じでした」
 
「子供の頃、小学校にジーンズを履いていったら、ジーパンは普通の洋服よりも格下のイメージだったんでしょうね。子供心にちょっと馬鹿にされていたのかなという気がしました。酷いいじめのようなものではなかったですが、アメリカの作業服を売っているお店は、普通の衣料品店より格が下といったイメージがあったのでしょう」

ジーンズもトップ3の時代から新しい時代へ

「昭和48年、一番忙しい時期を過ぎ、それからいろんなメーカーがジーンズを売り始めました。40年を過ぎ、ユニクロやギャップというような大型店に替わっていった。現在、うちは日本で初めて国産ジーンズを作った岡山のメーカーKappaジーンズを扱っています。シリアルナンバー入りで、職人がひとつひとつ手作りで縫製した、こだわりのジーンズです」
 
ジーンズ以外で主に扱っているのは、男性はUniversity of Oxford、女性はブルーベルというブランドだ。これまでいろいろなブランドを扱ってきたが、この二つのブランドが西荻窪の顧客にぴたりとはまり、喜ばれているそうだ。

父にはいつもお説教をされていた気がする

「うちの父は苦労して商売をしてきた人だからいつも僕が言われたのは、お前は真剣に生きてないって、その言葉はちょっと違うかもしれないけど、なんか人生をなめているみたいなことをいつも言っていました。いつもお説教をされたような気がします。とにかくお説教が大好きでした。まあ、それだけ心配だったんだろうと思います」
 
西荻窪はみんなゆったり、のんびりしているように思うと裕昭さん。「阿佐ヶ谷辺りと比べると、やる気があんのと言われちゃうけど、その代表だね。私は」と笑う。長く続く秘訣はと訊くと「うーん、なんだろう、流されるままにかな」
 
この店の何処か緩やかな時間が流れる、リラックスできる雰囲気の理由がわかったような気がした。
 

ジーンズショップ オークランド
住所:東京都杉並区西荻南3−10−10
電話:03-3333-6032
営業時間:12:00-22:00
定休日:元日のみ
JR西荻窪南口 仲通り商店街
 
文章 小野由美子
写真 小野英夫
 
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西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん

縁ある同士、必ずどこかで結ばれる

ここに一冊の本がある。昭和41年に読売新聞社から刊行された写真集「人間国宝」。昭和23年に写真師により結成された新生写真協会メンバーが撮影した写真だ。
 
人形浄瑠璃・文楽太夫、十世・豊竹若太夫の楽屋から退席するさりげない姿。人形浄瑠璃・文楽人形、二世・桐竹紋十郎の緊張感漲る舞台と楽屋での一枚、自宅で撮影した人形を動かす写真は斜逆光線を生かした写真師ならではの傑作。京都で撮影した染織・有職織物・羅の喜田川平朗の品格溢れる肖像。滅びゆく玉藍のユカタを墨田区の自宅で切なく制作する染色・長板中形の清水幸太郎。文京区にある自宅工房の空気を巧みに表現した蒔絵師の松田権六の仕事場風景。
 

上段左と中央は清水幸太郎、右は桐竹紋十郎 下段左から豊竹若太夫、松田権六、喜田川平朗(読売新聞社発行『人間国宝』より)

これらは新生写真協会メンバーのひとりで、昭和七年に西荻窪で写真館を開業した故・高木文二さんの作品である。
写真師、あまり聞きなれない言葉だが、写真館のカメラマンをそう呼んでいたのである。今ではデジタルカメラで誰もが簡単に写真を撮ることが出来るが、フィルムを使うアナログカメラ時代には、写すこと自体が至難の技であった。上流階級から庶民に至るまで、写真館での記念写真は人生の大切な記録として浸透して行ったのである。
西荻春秋の取材先を探すため、いつものようにスタッフは西荻窪の街をぶらりぶらりと歩いていた。すると、スタッフのひとりで生粋の杉並っ子の窪田幸子さんが住宅玄関先で婦人と話を始めた。その住宅のある場所には昔写真館があった。窪田さんは写真を撮ってもらった思い出があり、婦人は、そこの写真師の高木文二さんの子息、昇さんに嫁いできた都さんだったのだ。
窪田さんには子供の頃から成人式に至るまで、高木フォトスタジオで記念写真を撮って貰った思い出があった。社会人になってからは、言葉を交わす機会はなかったが都さんは憶えていてくれたのだ。写真師は、自分で撮った写真は全て記憶しているという。当時、都さんは顧客の髪や衣服を整える手伝いをしていたのだが、義父の文二さんを尊敬していたこともあり、懸命に仕事をしていたので写真師に負けず劣らず鮮明に憶えていたのだろう。

写真館のある風景

昭和12年、昇さんは文二さんと輝子さんの長男として生まれた。幼少期、彼は祖母にとりわけ可愛がられた。幼稚園通いはいつも付き添い、怪我をしないようにと50cmの高さから飛び降りることもさせないほどだった。そんな祖母が口癖のように昇少年に伝えた言葉があった。それは、「親の職業から離れたら駄目」であった。

小学校は近くの高井戸第四小学校に通った。しかし、昭和19年、 空襲で校舎が焼失、生徒達は高井戸第二小学校と桃井第三小学校に別れて授業を受ける混乱期を迎えた。だが、有難いことにスタジオと家は焼けずに残った。
高校は日大二高へ、クラブ活動は美術部に参加した。美術部主任であった日本画家・上林教諭から構図や空間表現を学び、創作に関心を抱くきっかけとなった。そして、大学は日本大学芸術学部写真学科に進んだ。これには文二さんの大きな期待が込められていた。昇さんを「写真館の跡継ぎにしたい」との強い思いがあったからだ。当時の教授陣は少数ではあったが、報道写真家の草分け、渡辺義雄、写真芸術論や写真史の第一人者、金丸重嶺など、優れた指導者が名を連ねていた。
ある日、昇さんは渡辺教授に「どうすればよいのですか」とノウハウについて質問したことがあった。すると教授は「僕が言うことじゃないから、盗んで上に行きなさい」と答えた。先輩の後姿を見て学ぶ時代だった。
写真界は木村伊兵衛と土門拳の全盛期、そしてアメリカ広告写真が流行。写真家は、若者にとって一躍憧れの職業となった。同期生に日本写真家協会会員で作家活動を現在も続ける立木寛彦(たつきひろひこ)がいた。彼の実家も写真館であったが、作品づくりがしたくて創作の道を歩んだ。昇さんも、世に認められてからも助手にシャッターを押させない土門拳の姿勢に尊敬の念を抱いていたが、写真家への道を目指すことはなかった。
大学を卒業すると社会勉強のため、浜松町の広告写真スタジオで修行した。流行最先端の職場ではあったが、父の仕事を継ぐ覚悟に迷いはなかった。創作活動は休日に建築写真を撮りに出かけるのみであった。
助手として下準備をし、あとは文二さんがシャッターを押せばよい状態にセットアップするのが、昇さんの仕事だった。その他に西荻窪駅前の「こけしや」や教会での結婚式撮影も請負、多忙な毎日を過ごしていた。
ある日、縁あって都さんと出会い、結婚することになった。父と親しかった写真館の草分け、写真師で肖像写真家でもある吉川富三が二人を祝福して婚礼写真を撮ってくれた。吉川は自然なライティングを駆使する写真師として知られていた。

 

左は祖母と両親の遺影を掲げる昇さん、右は昇さんと都さん


吉川との出会いは、昇さんの写真人生に大きな影響を与えた。写真師は創作写真家に比べると、芸術家としての評価が恵まれない傾向にあった。吉川は著名人の肖像を写真集にすることで、地位を高めようと努めた。昇さんは、建築を主題に独自性を強調しながら、写真館組合が発行する雑誌「JPC」に掲載したり、毎年開催される日本文化協会全国展・関東写真家協会展に出品したりと、大いに吉川からの感化を受けた。
文二さんは、第68代総理大臣・大平正芳、20代の頃の俳優・森繁久弥、子役時代の女優・松島トモ子、久我山に在住していた洋画家・東郷青児、松庵に在住していた文学者・金田一京助、女優・京塚昌子などの肖像を残している。杉並区高井戸に住んでいた歌人の木俣修は、文二さんの作品を「これは本当の芸術だ」と称賛した。
昇さんも、三笠宮崇仁親王、日本経済団体連合会第4代目会長・土光敏夫などを撮影している。土光は「撮った写真を全部見せろ」という。カメラマンは、よい写真を選んでプリントして渡すのが常識だ。安定した実力がないと要望に従うのは難しい。昇さんは覚悟を決めて見せることにした。土光は「この写真気に入ったから買う」と言う。売る訳にいかないから、嬉しさもあって寄贈したという。都さんは「私、土光さん大好き、ぴしっと筋が通っていたから」と褒め讃える。よい写真には人柄まで写るものなのだ。写真師二代、見事な仕事ぶりである。

上段左から東郷青児、松島トモ子、金田一京助 下段左から京塚昌子、土光敏夫、森繁久弥

(杉並区立郷土博物館所蔵)

写真館が消えた日、時代も変わった

昇さんと都さんは、建築を学んだ長女・朋美さんから古くなった家の再建提案を受けた。昇さんは、文二さんの写真館を守りたい一心で抵抗してきた。しかし、東日本大震災の揺れは尋常なものではなかった。「お母さん、絶対危ないからお父さんを説得して」と娘さんから懇願された。平成25年、ついに意見を受け入れた。

昇さんの気もちを察した長男・昭彦さんから「せっかくだから、お父さんの写真を飾ったら」と居間にギャラリー、玄関にショーウインドーが設けられた。ショーウインドーの写真はスタジオを知る者には懐かしく、知らない者には謎めいたものとなった。

玄関先のショーウインドーと居間のギャラリー


 「昇さんは手間の掛らない頑固者、学生時代からずっとお父さんに尽くしてきました。一方で自分の世界も遠慮しながら貫いてきた。昇さんにとっても、スタジオが無くなれば縛られることなく、好きな写真を自由に撮ることが出来るのでは、私は賛成、よかったと思います」と都さんは語る。
最近のカメラ事情について「デジカメは簡単、数打ちゃ当たるだろうって、趣味で写真団体に参加する友人が言うけど、作品を見ると数ある内の一枚だってすぐわかる。僕の考えとは根本的に違う。彼には何も言わないけどね、今は写真サークルの6割が女性で、誰でも簡単に写せることを望むから」と昇さん。
 「昇さんの気もちはわかるけど、年取ってきた人が楽しむという考え方もあるでしょう。それもありかなって思うの。手伝いだけで写すことをしない私から見ると、極めるという以前に下手だからと諦めていたことが可能になって、写真ってこんなに面白いものかと再認識したのよ」と都さん。
誰もが写せるようになると、写真館の仕事も先細りとなる。親の職業を子が継承するのも難しい時代になった。娘の朋美さんは写真センスがあり、機械にも強いから跡継ぎには最適な人材。しかし、彼女は建築を学び写真から離れた。昇さんが興味を抱いた建造物への道、これもある意味で親子継承なのかも知れない。

記録の行方

スタジオのない生活は、昇さんを変えていった。雑誌投稿、写真展出品、コンテスト出品など、より意欲的に創作に取り組むようになった。雑誌では「最高賞の総理大臣賞受賞が目標」と積極発言をする一方、「賞より新しいものを撮ることが出来たら幸せ」と謙虚さも覗かせる。「体力と感性がある限り作品づくりをしたい。僕は、写真を撮りながら棺桶に入るのが理想」と語る。
写真を撮るには肺と腹筋を鍛えることが大切と体力づくりに努める。昇さんは、若い頃から『弓道』をしていた。しかし、父に代わって仕事をしている内に筋肉が衰え、弓を引くことが出来なくなってしまった。それからは、弓に通ずる礼儀作法で親しみやすい『スポーツ吹き矢』にチャレンジすることにした。現在キャリア2年目を迎える。また、時間があれば長靴を履いて今川まで30分ほど自転車を走らせ、区民農園で畑仕事をする。食べきれないほどの収穫があるという。
文二さんが亡くなった時、杉並区郷土博物館に肖像写真の一部を寄贈したことがあった。写真館閉鎖に伴って、30人分のポートレート、計58点の写真と機材一式を改めて贈呈することにした。
写真記録というと、誰でも「動の記録」である報道写真を思い浮かべる。しかし、文二さんと昇さんの仕事は「静の記録」、さりげない毎日の積み重ねが百年後に偉大な記録となる好例だろう。
これから杉並区郷土博物館で作品に触れるたび、ベレー帽をかぶり、洋服を茶で統一したおしゃれな文二さん、律儀な頑固者、そして謙遜の人、昇さん、親子写真師二代の姿が思い浮かぶに違いない。

 

文: 奥村森
写真: 高木文二、高木昇、澤田末吉

ー 肖像権許諾にご尽力頂いた方々
高木昇&都夫妻、杉並区郷土博物館、金田一秀穂様、森繁建様、松島トモ子事務所様、ギャラリー・コンティーナ様、橘学苑様。京塚昌子さんに関しては、ご遺族の所在不明のため肖像権許可なしに掲載しております。
肖像権者の方がご覧になりましたら、是非ご連絡下さい。
ー 参考資料 ー
読売新聞社 写真集「人間国宝」
取材日 2016年9月16日
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杉並区高円寺在住イタリア人

ジョバンニ・ピリアルヴ(Giovanni Piliarvu)さん

 イタリア半島西方の地中海に浮かぶサルデーニャ(Sardegna)島、人口165万人、面積はシチリア島に次いで地中海で2番目に大きな島である。海に囲まれた豊かな自然と古い建造物が残る歴史ある町並みが魅力だ。これから紹介するジョバンニさんは、そんな環境で生まれ育った。
 
 イタリア人というと、陽気でお喋りのイメージがステレオタイプ(先入観)として定着している。だが、彼にそれは当てはまらない。穏やかで落ち着いた紳士だから。言語も文化も異なる国に長く住み続けるのは簡単なことではない。インタビューに応じるジョバンニさんから、柔軟で協調性に富んだ人柄を感じた。「この人だから、10年もの長きに渡って日本在住が出来たのだ」その秘密の一部を垣間見た気がした。
 
 ジョバンニさんは、島から比較的近いイタリア・ルネサンスの拠点、フィレンツェ(Firenze)にあるフィレンツェ大学に入学した。そして、教育学と言語学を専攻した。「失礼かも知れないけれど、最初は日本に全然興味がなかった。ドイツ語やイタリア語を話す人は多いから、珍しい言葉を勉強したいと思った。だから日本語を専攻した」と振り返る。
 
 日本語の難しさにクラスメイトが次々と脱落していく。ジョバンニさんは勉学に励み、見事修士課程を取得、卒業旅行で初めて日本を訪れた。日本については、滞在経験のある同級生や日本の友人から話を聞いていたが、初めての日本で強く印象に残ったのは風景だった。
 
 秋の紅葉は素直に美しかった。だが、町の空が見えないほど張り巡らされた電線には驚かされた。イタリアでは景観維持のため規制が厳しくありえない光景だからだ。
 
 卒業後は、フィレンツェで働きたいと望んだが仕事がなく、ビジネスチャンスを広げるために貿易を学ぼうとベルギーを訪れた。その後、貿易研修のために再来日、以後10年、日本に住むことになった。
 
 ジョバンニさんは、イタリア語教師の傍ら、写真家としても活動している。おじいさんがカメラ屋を営んでいたので、小さい頃からカメラに触れる機会があった。学生時代はミュージカル歌手をしていたこともあったが、東京では音楽活動は難しいので、代わりに写真を撮っているという。
 
 彼の写真のモチーフは日本とサルデーニャ島の風景や祭りで、ギャラリーでの展覧会も開催している。日本では、徳島の『阿波踊り』や越中八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた民謡行事『おわら風の盆』などを写真に収め、阿波踊り協会等に写真提供もしている。
 
 サルデーニャ島の祭りはどのようなものか聞くと、「長くなるよ」と笑いながら嬉しそうに語ってくれた。サルデーニャ島では、1年に約120もの祭りが行われる。自然と生活が密接に関わるこの島では、祭りも自然に関わるものが多く、その点では日本の神道にも共通点が見られるという。
 
 昔は、食事も仕事も自然の影響を大きく受けたため、自然崇拝や豊作祈願をしたり、祈りのために生きている人を捧げたりしたそうだ。現在では実際に犠牲は行わずに模倣により伝統を受け継いでいる。中世、サルデーニャ島は4つの地域に分かれていた時代があった。祭りにもその影響が見られ、同じ島内でも30キロメートルも離れれば地域によって全く異なった祭りが行われる。
 
 騎馬行列があったり、日本の『なまはげ』のような格好をしたり、特色は様々だ。自然への祈りや行事内容など、日本の伝統的な祭りとの共通点も見られ、遠く離れた地でも昔の人々の生活は似ていたことに驚く。ジョバンニさんは、日本サルデーニャ協会の運営に参加しており、こうした祭りなどを中心に、写真を通してサルデーニャ島の文化や歴史を日本に伝えている。
 
 また、5年ほど前に日本の旅行会社から相談を受けたのをきっかけに、ジョバンニさんはサルデーニャ島への旅行案内も行っている。サルデーニャ島は、リゾート地として海を見に行きたいという人が多いけれど、島の良さは内陸にある。自然保護環境に優れ、他の場所で失われてしまったものも残っている。
 
 シチリア島では、他民族が移り住んで新しい建造物がたくさん建てられたが、サルデーニャ島には移民が少なく、文化にあまり変化が起きなかった。郊外に3000年前の遺跡がいっぱい存在する。今でも昔と変わらぬ時間がゆったりと流れる。
 
「サルデーニャの人々は自分のアイデンティティを持っているから、現在でも羊飼いがいて、歴史や伝統を大切に守り続けている。それがサルデーニャの魅力、島を案内して人々が感動するのを見るのが嬉しい」とジョバンニさんは誇らしげに語る。イタリアを離れ、いろいろな異文化に接してきた彼の言葉には説得力がある。
 
「他国の文化や習慣、考え方で合わないことがあっても、『ありえない』と拒否するのではなく、合わせることも必要。僕は、ここではお客さんだから」郷に入っては郷に従えの故事を実行している。
 
 そんな彼だが、芸術家としての一面も顔を覗かせる。「展覧会を開催すると、機材は何を使っているかと尋ねる人が多い。僕は、もっと作品を見て欲しいと思っている」この発言はカメラ機材などの道具よりも、写真作品、つまり創作を大切にしている証である。
 
 また、日本国内を旅行する時は、ホテルよりも民宿を使うようにしているという。「自分の家族のように迎え、もてなしてくれる。ホテルの『お客様は神様』みたいな対応はあまり好きじゃない」人との出会いを大切にする姿勢も強く感じた。
 
 現在、高円寺に住んでいるジョバンニさん。「杉並の魅力は、下町の感じが残っていること。高い建物が少なく、生き生きとしたエリア。あと、高円寺に住んでから、阿波踊りにはまった。お陰様で、毎年阿波踊りの撮影をさせてもらっているから、夏は灼熱の東京に居てもすごく楽しい。」
 
「サルデーニャは一応イタリアだけど、文化と歴史が違うから、日本でいう沖縄みたいな島」現在はイタリアに属しているが、イタリア半島から離れているため、前述した異なる文化と歴史を作り上げてきた。言語も独自のサルデーニャ語が存在する。現世代のジョバンニさんはイタリア語で育ったが、サルデーニャ語も理解できる。島の高齢者は、今でもサルデーニャ語を使い、イタリア語が分からない人もいる。
 
 そのためか、日本のテレビ局から頼まれ、サルデーニャ語を日本語に翻訳する機会も増えた。今後の夢について訊ねると、「教えるのが好きだから、イタリア語を教えながら写真の仕事も続けることが出来ればと考えている」と答える。
 
「日本に出身地、サルデーニャのサッサリという町などを紹介する活動をしたことがあった。今後は、日本をイタリアの大都市で紹介する活動もしたい」異なる環境で柔軟に人々と真摯に対応するジョバンニさん、更なる活躍を期待したい。
 
文:大久保苗実
写真:澤田末吉
 
取材日:2017年3月25日
 
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金田一秀穂先生の西荻今昔

松庵生まれの国語学者金田一先生に西荻窪についてお話を伺うことにした。わざわざ松庵舎にお出で頂けるということなので、待ち合わせはJR西荻窪駅の改札口となった。失礼のないようにと約束の時間より早めに着いた私たちの前に、先生はすぐに現れた。先生は「アリャ」と思われたそうだが、もちろん早く来てよかった、と安心している私たちが気付くわけはない。早速、松庵舎に向かった。途中の道は先生が子供時代に駆け回った場所だ。
住宅街を歩いていると、「この付近には大きな家があったけどみな小さな家に分けられちゃったなー。この近くに大きな桜の木があったんですけど、どうなったんですかね?」、と聞かれて、落ち葉や虫の手入れが大変で伐採されてしまった、と言う私たちの返事に残念そうだった。歩きながらいろんなことが思い出されるようだった。先生がひときわ懐かしそうにみえたのは、松庵舎の玄関前で五日市街道を挟んだ斜め向かいの三軒長屋を見た時だった。「あそこに竹屋さんがあって、本木さんというお店だったけど、文房具も売ってたんですよ。よく買いに行ったな」。お気に入りのお店だったそうだ。今は建物だけが残る。この近くにはもう一軒、松庵堂という文具屋さんもあったが、今はそこもない。

松庵と自転車

先生は昭和28(1953)年5月の生まれ。同35年に松庵小学校に入学した。中学は西宮中学校。この小学校の校歌が父上の春彦先生の作詞だそうで、この校歌ができるまでの興味深い話をお姉さんの美奈子さんが、同小学校の同窓会で話されているので関心のある方はこちらのサイトを見て下さい。
「小学2年生、3年生のとき入院していたことがあって、健康な子供ではなかったけれども自転車で駆けずり回っていました。よその畑を通り抜けても誰に文句を言われるわけでもなく、のんびりしてましたね。自動車も危ないことなくて、道が舗装されていないから土ぼこりがすごかった。それが、ある日五日市街道が舗装されてびっくりして、家の前まで舗装されて愕然とした」。

「隣の家が辻さんち(現在の一欅庵)で、うちと庭続きだったからよく遊びに行ったけど、そこの大きな防空壕で遊んで怒られたことがあった。危ないから大人は止めるでしょうけど……。そういえば中央線が土手の上を走っていたころ、線路にくぎを置いて叱られたこともありましたね。まさか電車が止まるとは思ってもいなかった」。そのころ、防空壕に入って探検ごっこをしたり、線路にくぎを置いたりする遊びはスリルがあって、子供たちの好きな遊びだった。恐ければ恐いほど思い出は鮮明だ。
「小学校の通学区域のそとにいくことは恐かったですね。武蔵野市との境の道は越えることはほとんどなかったです。心理的なバリアーみたいなのがあったのかな。ですから神社の縁日でも松庵稲荷神社はいったけれども、春日神社はちょっと遠いし、区域外の吉祥寺の武蔵野八幡宮にはいかなかった。久我山にもあったけど何か違う、怖いところでしたよ。不良がいてお金を取られるようなね。そういう危ないところでした。中央線の線路の向こうにあった薄気味の悪い道、知ってるでしょう?」。突然聞かれた。初めは聞いている私たちの誰も、どの道のことかわからなかった。

薄気味の悪い道と沼

「線路の向こうでさ、行き止まりの道でそこがロータリーになってるの。ただの路地なんだけど子供心にわけのわかんないみちで、誰かの屋敷跡かもしれないけど、幽霊が出そうな感じで気味悪かった。今のうち写真撮っておいた方がいいよ。なくなっちゃうよ」、と言われて翌日、現場に出かけてみた。確かに子供だったらそんな感じの道ではあった。ここは松庵小学校の通学区域の北の端になるところでもある。念のため法務局で調べてみると、ロータリーの歴史は詳しくはわからなかったが、明治後期、松庵村の農家であった窪田太左衛門が畑の一部を姉の夫に譲ったものだとわかった。お勧めに従って写真は撮っておいた。
昭和30年代は屋敷跡ばかりでなく空き地や原っぱ、池などがあちこちにあって、子供たちの格好の遊び場だった。「池といえば、この道の近くだけど、吉祥女子高に行く途中に得体のしれない沼があったの。自然に湧いている池かどうかわからないけど。荻窪辺りは湧水が多くて、よそと違って水がおいしいといわれるんだよね。裏手に大きな池のあるお寺もあったんだけど、この間Google Earthで見てみたけど分かんなかったな」。この沼は現在の地図には載っていないので、杉並区立郷土博物館で調べると『杉並の川と橋』(研究紀要別冊、同博物館発行)に収められている論文「杉並の川と水源」(久保田恵政著)に次のように書かれていた。「鉄道施設用土採取跡地の池は、高円寺、阿佐ヶ谷の他に、西荻窪駅の西に線路を挟んで二ヵ所あった」。そのひとつが松庵窪(女窪)で場所が西荻北3-9と記されていて、先生の話している辺りになる。これは地元の昔をよく知る人で、甲武鉄道(現中央線)を走らせる土手を作るのに、必要な土砂を採った後のくぼみに水が溜まった池だ、と話す人もいて、おそらく湧き水ではないのだろう。

松庵窪(女窪)付近から線路に向かって下っている坂と本田東公園

ただ、現地に行ってみると、この辺りが吉祥寺方向に下がっていて、ここよりさらに低くなっている場所を見つけることができる。線路沿いの北側にある本田東公園だ。杉並区と武蔵野市との境界の道をあいだにして市側にある。ここが、雨が降るとよく水が溜まり、池のようだったという地元の人の話があって、あるいはこちらが「得体のしれない沼」だったのかもしれない。

恐い事件と懐かしい店々

「怖い話だけど、松庵稲荷のそばの交番でお巡りさんがナタか斧で殺されるという事件があったんですよ。犯人が捕まらなかった」。これも調べてみると、昭和41年7月27日未明の事件で、27日付の読売新聞朝刊に「交番の巡査殺さる」という5段見出しの記事で第一報が、同日の夕刊で詳細が報じられている。その交番は今はない。先生が13歳の少年の時になる。
なにやら漫画の『金田一少年の事件簿』みたいな話題になったところで、金田一姓の読み方について耕助探偵にも登場してもらう。いまでこそ金田一姓はほとんどの人が正しく「キンダイチ」と読めるだろう。しかし昔はそうでなかったと、春彦先生は嘆かれていて、「戦後は、金田一耕助探偵のはでな活躍で、キンダイチという苗字をはじめから読んで下さる方がふえたのはありがたいことで、作者の横溝正史さんに千金を積んでも感謝したい気持である」、と『出会いさまざま』(金田一春彦著作集第12巻)に書かれている。余談でした。
「仲通りに、駅へ行く左側に豆腐屋さんがあって、向かいがこんにゃく屋さんでした。いつごろか、豆腐屋さんが火事を出して、それが生まれて初めて見た火事でしたね。梅村質店の子が同級生でした。そばにある床屋の佐藤さんで、雑誌『少年』の鉄人28号や鉄腕アトム、ストップ兄ちゃんなどの漫画を読んだりしてました」。
「昔のことは言い出したら、ああ、キリがない。時間がいくらあっても終わらないですね。『キングコング対ゴジラ』を見に行った映画館・西荻セントラルもボーリング場になって、それも今はなくなった。映画館の近くに高級プラモデル屋さんがあって、レーシングカーで遊んだこともあったな。駅の南口に向かう銀座通りに、不思議なことに時計屋さんが五軒もあった。おじいさんが奥の方にいて仕事していた。好きでよくのぞいたけど、そのお店もいつの間にかなくなっちゃった。この通りと五日市街道の角(今の広島カンランのところ)にヤマザキパン屋さんがあって、その隣がクリーニング屋さん、その数軒さきが食堂だった。ちょうど関東バスの停留所前だったと思います。オムライスとかよく食べたけど僕の食堂のイメージはこのお店ですね。五日市街道沿いには、魚屋さんとか好きで通った本屋さんとか、お店屋さんがたくさんあったけど、ほとんどなくなっちゃたですね。残っているのは高橋菓子店ぐらい。昔のことを知っているというのは、いいことなのか悪いことなのかよく分かんないですよね」。

西荻の今と三代目

話題を今に戻して、西荻窪の魅力について語ってもらうことにした。「久我山のほうになっちゃうけど、ちょっと木が繁っていて武蔵野の雰囲気が残っているところ、西荻にもあるけど緑の多いところが好きですね。この間読んだ橋本治さんの本で彼が言っていたけど、西荻は隠れおしゃれタウンなんだそうですよ。そんなこと言わなくても、高円寺や阿佐ヶ谷もおなじだけど、駅前に安くておいしい焼き鳥屋があるのがいいですよ。西荻だと戎ね。狭くて小さくて昔風のバラックで崩れ落ちそうな雰囲気がいいですよ。いいよね、このいい加減さが、駄目さが好きですね」。
「そうそう、このことは言っておきたいんですけど」、と強調されたのは、「西荻に住んでいていいなと思うのは、金田一家三代目でよかったなと思わされることですね。床屋さんに行くと父の髪型がこうだったとか、すし屋で父の好みがこれこれだったとか話をされると、浮ついた名前だけの関係という感じでなく、なんか地に足の着いた安心したお付き合いができて、この地に生まれた三代目ということを実感できることがうれしいですね」。

今の日本語の状況について尋ねると、「若い人は若い人なりに自分に合った言葉を使っている。間違っていても自分の気持ちにぴったり合う言葉を使っている。それはどうしようもないことですね。でも、大人は違う。間違った言葉を使ってはいけない。大人は注意してもらえないですから。政治家の言葉使いはひどいものだし、団塊の世代はたかが言葉じゃないかと思っているようで、どうしようもないですね」、とこれまでの話ぶりとは違った、きっぱりとした口調でいわれた。
取材が終わるころ、「今日は西荻なので早めに行って、水のおいしい西荻でうまいコーヒーを飲もうと、楽しみに来たのに、降りたらもう来てるんだもん。アリャと思って、行きそこなっちゃったよ」、と言われてしまった。おいしい喫茶店があるのも西荻の魅力の一つですね。お会いしたとき、そうとは知らず松庵舎に案内してしまい失礼いたしました。よく通った喫茶店ということなので、帰りに寄られたことと思いましたが、戎かもしれないという声もありました。先生、早く行き過ぎてすみませんでした。

文: 鈴木英明
写真: 澤田末吉
取材日 2017年6月26日
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『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ

 
フードショップ『喜久屋』は、昭和20年(1945年)の開店当初から南口の『こけし屋』、北口の『喜久屋』と西荻人から親しまれ、戦争で荒廃した社会をハイカラにする牽引役を果たしてきた。最近、その『喜久屋』の向かいにある北口駅ナカに同業大手『紀ノ国屋』が参入してきた。
『紀ノ国屋』は、明治43年(1910年)に青山で果物商としてスタート、昭和28年(1953年)、それまでのザルで代金のやり取りをする「留め銭」と呼ばれた手法から、レジスターで精算する新しい買い物スタイルを導入、日本初のセルフサービス・スーパーマーケットを青山に開店した。その後、パン食を始めとして、これまで日本にはなかった舶来食品の販売に力を注いだ。
取り扱い品目は、まさに『喜久屋』と競合する。会社規模や資金面からすると敵う相手ではない。これまで大黒柱として店を切り盛りしてきた代表取締役の上野山圭祐さんも高齢になり、『喜久屋』にピンチが訪れた。
 

顧客と寄り添う『喜久屋』の存在

圭祐さんは、横浜市鶴見区の出身、戦時中は縁故疎開で信州に暮らした。帰京後、叔父が経営する阿佐ヶ谷の書店を手伝いながら松の木中学の一期生として学校に通った。ちょうどその店の隣にあった食料品店『喜久屋』を経営していた吉田清蔵さんの目に誠実に働く圭祐さんの姿がとまり、西荻の『喜久屋』への就職が決まった。
『喜久屋』社長の上野山喜吉さんは、戦後復員して故郷和歌山からみかんを当時神田にあった市場に卸していた。その他にも西荻窪でパチンコ店、映画館、証券会社など、手広い事業を展開するする経営者だった。圭祐さんは、そんな喜吉さんの下で働くことになった。
 

ここでも彼の誠心誠意の姿勢は変わらず、喜吉さんに気に入られ上野山家の娘婿として迎えられ、新たな店を任されるようになった。どのような店にするかの構想を練るため、青山の『紀ノ国屋』、銀座の『明治屋』、新宿の『高野』などを参考に見て回り、商品の種類、並べ方、接客の仕方など、商売の基本を勉強した。
 

しかし、何分戦後で物資の乏しい時代なので店に並べる商品がない。配給された小麦粉を集めてパン屋で製パンしてもらい、その工賃を貰って舶来の缶詰を購入、北海道から乾燥した数の子を求めるなどして少しずつではあるが商品が店頭に並ぶようになった。時の経過と共に品揃えも充実し、西荻という土地柄を生かして、いち早くウイスキー販売の許可を取得、舶来ウイスキーの販売を始めた。
 「家庭の食卓をどのように演出するかを想像し、それに適したお酒、料理、食材をそろえるようにした」と圭祐さんは語る。そして、顧客との会話に耳を傾け、バター、チーズ、オイル、調味料、缶詰、ワイン、日本酒、ウイスキー、コーヒー、パスタ、菓子や材料など、ニーズに応えるよう努めた。
関東では珍しい関西や東北の菓子なども店に並べた。今では入手が難しい伝統的な商品や家内工業的に作られた手作り菓子も扱った。日本の古き良き文化を大切にしたいという思いからであった。今でも店内で金花糖の販売は人気の的だ。金花糖(きんかとう)は、煮溶かした砂糖を型に流し込み、冷やして固め、それに食紅で彩色した砂糖菓子である。江戸時代に南蛮菓子を真似て作られたものとされ、結婚式の引き出物や節句祝いなどに用いられる菓子である。
まずは顧客の声を大切に聞き入れ、品揃えをする。そして、すぐに商品を調達するフットワークの良さこそが『喜久屋』の真骨頂である。東京には地方からやって来た人が大勢住んでいる。そういう人達から「『喜久屋』に行くとこういう物が在る」との口伝えによって店は発展してきた。
インターネットブログで「クリーミーでまろやかなブルーリボン付ビン入りマヨネーズをもう何十年も愛用していますが、今でも一番おいしいマヨネーズだと思っています。このマヨネーズだけは『喜久屋さん』で購入したい」というこだわを持った熱烈なファンが『喜久屋』にはいる。昭和に生きた人々の思い出に寄り添いながら歩んだ『喜久屋』が浮かび上がる。

商店街の圭祐さん

上野山さんは『喜久屋』だけではなく、西荻窪商店街青年部も立ち上げた。
『駅前盆踊り大会』や『大売出し』など、いろいろな企画を立案した。なかでも有名なのが『ハロー西荻』、毎年5月に行われる西荻の名物イベント、街中で音楽ライブやパフォーマンスが行われ、ウォーキングやスタンプラリーの抽選会で豪華な景品が当たることでも知られる。圭祐さんは、この『ハロー西荻』の名づけ親でもある。
圭祐さんの功績は、それだけに留まらない。彼は消防団員としても活躍、こんな地域への熱意に信頼を寄せる近隣の私立保育園など50か所から、「昼食などの素材を配達して欲しい」との注文が相次ぎ、長い間続けてきた圭祐さんだったが、高齢であるのと人手不足もあって、最近は同業者にその仕事を分配するなどして数を減らしている。
従業員には上野山さん自身が率先して手本を見せ、無言のうちに後姿で仕事を教える。まるで親子のような関係だ。従業員は「尊敬しています」と話す。
圭祐さんは「西荻窪は生活環境としては、とても素晴らしい場所。でも、商売には厳しいところもある。そんな立地だからこそ、お客様との対話を楽しんで大事にすることが私個人にとっても街全体にとっても重要なことだと思います」と語る。若い頃、参考にした『紀ノ国屋』が駅前に参入してきた。「時代の流れはどうしようもない」圭祐さんの表情は達観していた。
「お客さんが何を考えているのかを見極め、欲している商品を揃えていく。お客さんとの人間関係を築くことが個人経営で最も大切な要素です。商品の中身についても積極的に会話して商品研究をしなければいけません」と説く。圭祐さんは82歳になった今も現役、住んでみたい町西荻窪を支える原動力として欠かせぬ存在だ。西荻窪の文化を消さないために。頑張れ、『喜久屋』、上野山圭祐さん。
 
文:澤田末吉 写真:奥村森
 
参考資料
紀ノ国屋ホームページ
 
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