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人情パン職人 夫婦のれん

 西荻窪駅北西、地蔵坂に向かう商店街を通り抜けると間口一間ほどの昭和を彷彿とさせるパン屋「しみずや」がある。主の名は金原勇三郎さん、79歳。
 甲州街道を新宿から下ると直ぐに、かつて巨大なガスタンクがあった。街道の向こう側には元オリンピック選手村で知られる代々木公園、近くには淀橋浄水場や屋形船が往来する十二社の美しい池があった。豊かな自然に恵まれながらも、新時代の息吹が感じられる環境だった。ここで勇三郎さんは生まれ、少年期を過ごした。
 昭和30年、18歳になった勇三郎さんは阿佐ヶ谷のパン工房に入社した。その頃、日本人は戦後の混乱から立直ろうと懸命になっていたが、一般的なサラリーマンでも生活するのがやっとで贅沢する余裕はなかった。
 若者たちは、世界に羽ばたく大手企業をめざして就職活動を展開していた。そんな風潮に逆らうかのように、勇三郎さんはパン職人の道を選んだ。理由は明快、「パン作りがしたい」からであった。

 入社して18年の歳月が流れた。36歳になった勇三郎さんは運命の人、幸子さんと出会い、結婚を決意する。真面目に働いた甲斐もあり、パン販売店を任されるほどになっていたが、店員が貰う給料では到底結婚して妻を養えるものではなかった。

 独立して幸子さんと力を合わせて店を開店しようと、既に西荻窪にあったパン店の権利を取得して創業したのが「しみずや」の始まりである。称号は、地元に馴染みある前店名「しみずや」を継承することにした。
 幸子さんは、やっかいな仕事を一手に引き受け、勇三郎さんがパン作りに専念できる環境づくりに精を出した。お陰で店は繁盛した。
 潔癖症の幸子さんは、保健所職員もびっくりするほど徹底した清掃をおこなうので、店内には塵ひとつなかった。そんな清潔感が顧客から大きな信頼を受けていた。
 普段は寡黙な幸子さんだが、子育ての方針で夫婦喧嘩すると一度だけではあったが、卵を勇三郎さんに投げつける気の強い一面もあった。しかし夫婦の結束は固く、こんな些細な衝突で揺らぐものではなかった。
人情「シベリア」作り
 勇三郎さんは、顧客に頼まれると断れない性格だ。ある日、上品な婦人が店を訪れ、病に伏す母親が「もう一度シベリアが食べたいと言っているので、作ってもらえないだろうか」と懇願された。以前作ったことがあったので人助けにもなるからと思い、直ぐに了解した。
「シベリア」とは、カステラで羊羹を挟んだ菓子のことである。羊羹をシベリアの凍土に例え、カステラを氷原に見立てたとか、シベリア出兵にちなんで作られ、羊羹をシベリア鉄道の線路に見立てたなど諸説いろいろだ。
 冷蔵庫のない時代、ひんやりとした食感と涼しげな名称が好まれ、昭和初期には子供が食べたい菓子のナンバーワンにもなった。発祥が不明なのも幻の菓子としての効果を高めたのかも知れない。
「シベリア」はカステラや小豆と寒天を煮て羊羹を自前で作らねばならないので、なかなか手間が掛かる。その上、型や材料の都合で一度に40個分も作らねばならない。売れ残るリスクに対する覚悟も必要だ。
 間もなくして「シベリア」が出来上がったので、早速、依頼した婦人に手渡し、母親に食べてもらった。病状悪化でほとんどの食べ物は喉を通らなかったが、「シベリア」だけは「おいしい、おいしい」と喜んで食べてくれた。商売にはならなかったが、勇三郎さんには充実感があった。

 それから数年後、アニメ映画作品「風立ちぬ」の一場面に「シベリア」が登場して話題になった。「シベリア」を売る店がなかったから、「シベリアのあるパン屋さん」として知られるようになった。

 このエピソードを語る勇三郎さんは、実に幸せな表情をしている。顧客に喜ばれるパン作り、これが勇三郎さんの原点なのだろう。
 妻の死
 平成19年5月7日、最愛の妻、幸子さんが69歳で他界した。直後は店を閉めようかと思ったが、息子さんから「おやじ、何もしないで、これからどうするつもりだ」と気づかわれ、「私も手伝うから店を続けよう」とお嬢さんにも励まされた。
 葬儀を終えてひっそり静まりかえった店に一人戻ると、常連客の寄せ書きが扉に張られていた。「また来るからね、美味しいパン作ってね」、「きっと、おばさんも天国でおじさんがパン作るの待ってるよ」と記されていた。

「これには泣けたなあ」と勇三郎さんは回想する。みんなに背中を押されて勇三郎さんの第二のパン作り人生が再出発した。店の棚には幸子さんの遺影が飾られ、勇三郎さんを暖かく見守っている。

 ショーケースには、朝から揚げクリームパン、メロンパンなどが並び、午後になると完売状態になる。パンを買い求めに訪れる若者からお年寄りまで、みんな勇三郎さんと親しげな会話を交わして帰っていく。

 勇三郎さんに一番大切にしているのは何かと質問すると、「正直」という言葉が返ってきた。「しみずや」のパンも正直そのもの、等身大の形と味、そして、平凡にして非凡なパン、人情と信頼がうまさを増幅してくれるのがもっと嬉しい。

しみずや
東京都杉並区西荻北4-4-5
電話03-3390-6781
12:30-19:30
定休日 水曜日

文:奥村森 写真:澤田末吉

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