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住宅街に息づく「長唄三味線」の世界

三味線で身を立てるつもりはなかったけれど……

 「三味線を弾いたことがある」という人はそんなに多くはないだろう。しかし、「三味線の音を聞いたことがない」という人もまた、多くはないはずだ。
 近世以降の日本の音楽(邦楽)を代表する楽器である三味線は、大きく3種類に分かれている。義太夫、津軽三味線、浪曲などに用いられる太棹。常磐津、清元、新内などに用いられる中棹。長唄、小唄などに用いられる細棹だ。
 その長唄三味線の名取であり、代々の地元である杉並区松庵で教室も開いているのが、稀音家一宣(きねやいちのぶ)さんである。

稀音家一宣さん

 一宣さんと三味線の出会いは7歳頃のこと。ご近所に名取の先生がいたことで、近隣の子供たちとともに稽古を始めたのがきっかけだった。
 とはいえ、三味線で身を立てようと思っていたわけではなかった。ところが高校3年生のときに病を得て、学校も休みがちになってしまう。おかげで就職活動もできず、「それこそプラプラして」いたそうだ。そこで、幼少期から習っていた三味線を本格的にやってみようと思い立ち、先生に相談する。

 「とてもいい女性の先生だったのですが、『せっかく本格的にやるのなら、男の先生にしっかり習ったほうがよい』と言われまして。その頃の私は、三味線に男の先生がいることすら知らなかった(笑)。それで、稀音家和三助師匠を紹介されて、そこへ通うことになりました」

 和三助師もまた素晴らしい先生だったそうで、一宣さんに「NHK邦楽技能者育成会」へ通うことを勧めてくれる。これは、1955(昭和30)年にNHKが始めた邦楽演奏家育成のための講座であり、三味線や箏、胡弓、琵琶、一絃琴、笛、雅楽などの演奏者が受講したもの。自分の演奏楽器のみならず、邦楽全般の歴史や関連の知識、五線譜による合奏も学ぶことができたが、2010(平成22)年、第55期生の卒業をもって終了した。ちなみに一宣さんの時代はなんと無料だったそうだ(途中から有料になった)。

 「とにかく講師の先生方が超一流。週1回、1年間通わせてもらいました。私の親は芸事には全く無関心で、歌舞伎などにも連れていってもらったことがなかった。だから育成会で初めて、人間国宝級の方たちの演奏を目の前で聴くことができたわけです。『こんな世界があるのか!』と驚き、『こんなに素晴らしい方に稽古してもらえるのか!』と感激しますよね。それが三味線に魅せられた本当のきっかけだったと思います」

 ただ、それでもなお、一宣さんは三味線で身を立てようとは全然思っていなかった。育成会の卒業生で行う演奏会などには参加していたものの、いわゆる名取になる気もあまりなかったそうだ。

 「師匠同門の小三八先生主催の演奏会に出させていただくようになりまして。三味線はいわば趣味でやっていたのが、たまたま行き会った素晴らしい先生方に、長唄のことはもちろん、知らない世界のことをたくさん教えていただきました。それがとっても楽しかったんでしょうね」

 なお、小三八とは長唄の唄方で、古典の復活・伝承に努めた人物。1969(昭和44)年に日吉流をおこし、吉住小三八から日吉小三八に改名した。74(昭和49)年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。

 「やはり(長唄三味線の)会に入るには稀音家某という名前が必要なので、そのために取ったようなものです。師匠・和三助が、当代の稀音家六四郎のおじい様にあたる四世六四郎と仲が良かったという縁もあって、四世家元から稀音家一宣の名をいただきました。そうして、通ってくる方にお稽古をするようになり、演奏会も徐々に増えていきました。この世界は、特に若い担い手が少ないこともあって、若手の演奏家は大事にされることが多かったんです。そして、三味線を弾くには唄と鳴物を勉強しなければいけないと師匠に言われ、唄を稀音家義丸師に、鳴物を福原鶴二郎師にお稽古していただきました」

 一宣さんが所属しているのは、小三八師の流れである「道の会」(正式名称は「道」)、「東京稀音会」、「長唄伝承曲の研究会」、「長唄稀曲めぐりの会」である。
これら所属している会の定期演奏会などに参加するほか、長唄協会が主催する演奏会も定期的にあるそうだ。長唄協会のHPを見ると、長唄の演奏会が実はたくさんあることがわかる。プログラムも見られるので、その中に一宣さんの名前を見つけることもできる。

 「流派がたくさんあって、国立劇場の大劇場で、長唄協会主催の合同演奏会を毎年行っています。最後に大勢170名くらいで一斉に演奏することもあり、かなり見事なものだと思いますよ」

 ご自宅で開いている教室は、月に4回。通ってくる生徒は15人くらいとのことだが、それとは別に、宮地楽器という大手の楽器店が主催する音楽教室でも、三味線の講師を務めている。

 「そこの国分寺センターで『長唄三味線』のコースをやらせてもらっています。6、7人の生徒さんがいますね。月に2回、1時間のお稽古です。趣味として三味線を始めようと思っても、費用もかかるし、贅沢なこととして尻込みしてしまうかもしれません。だからこそ、宮地楽器さんの教室などがうまく入り口になってくれるのかな、と思っています。もちろん本当に入り口しか習うことはできないので、もうちょっとやりたいなと思ってウチに来てくれるようになった生徒さんもいます」

「長唄」って、何?

 ところで、そもそも「長唄」とはどういうものなのか。三省堂大辞林では以下のように説明されている。

――近世邦楽の一種目。江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展した三味線音楽。初期の歌舞伎の踊り歌と、元禄(1688~1704)頃に江戸にもたらされた上方長歌とを基に、享保(1716~1736)頃に確立し、以後、各種の音曲の曲節を摂取しつつ大成した。舞踊曲が本来だが、舞踊を伴わず長唄演奏のみの曲(お座敷長唄)も少なくない。② と区別して江戸長唄ともいう。
② 地歌の曲種の一。個別の短編歌詞を組み合わせた三味線組歌に対して一貫した内容の歌詞をもつ新曲種として一七世紀末期に確立。上方長歌。――

 若干補足すると、江戸長唄は「享保頃に確立」した後、歌舞伎音楽(主に舞踊の伴奏)として発達する。当初は、その演奏者の出生地にちなんで江戸長唄、大坂長唄などと記されていた。しかし、劇場出演者が江戸出身者によって占められるようになる一方で、上方の芝居唄は歌舞伎音楽としては伝承されず、端歌などに吸収されていった。こうした経緯から、一般に長唄といえば江戸長唄を指すようになったとされる。18世紀後半から19世紀前半にかけて、長唄独自の性格が確立されるとともに(江戸)長唄は全盛期を迎える。

 「歌舞伎の演目には『娘道成寺』などの舞踊ものがあります。また、『勧進帳』のような物語り曲の要素が強い演目もあります。そういう演目では『地方(じかた)』という、三味線や唄方が踊りのための伴奏をします。それが長唄なんです。もともとは三味線とお芝居と踊りがセットだったんですね。それが、明治時代になって西洋文明が広がると、上流階級の人たちにも楽しめる音楽としての長唄が必要とされるようになった。そこで生まれたのが『長唄研精会』です。これは、歌舞伎と踊りから離れて、演奏家の演奏だけに長唄を特化して聴かせようという運動でした」

 長唄研精会(以下、研精会)とは、1902(明治35)年、四世吉住小三郎(後の慈恭)と三世杵屋六四郎(後の二世稀音家浄観)の二人によって創設されたもの。一宣さんの話にもあるが、長唄を芝居から独立した鑑賞用音楽として成立させるという新たな試みであった。彼らによって演奏を主眼にした楽曲が数多く創作され、長唄界に新風を吹き込む。以後、各流派による演奏会も数多く開かれるようになり、長唄は広く一般家庭にも普及、浸透する。
 1925(大正14)年には長唄協会が設立されるが、12名の設立委員の中に長唄普及の功績者である二人の名前があるのも当然だろう。
 さらにこの二人は、旧東京音楽学校(現・東京藝術大学)に邦楽科を創設するために尽力したことでも知られる。1929(昭和4)年には同校に長唄専科が新設され、二人とも講師となる。その後1936(昭和11)年には本科となり、ともに教授を務めている。
 現在は東京藝術大学音楽学部邦楽科として、三味線音楽(長唄、常磐津、清元)、邦楽囃子、日本舞踊、箏曲、尺八、能楽、能楽囃子、雅楽の各専攻がある。芸術大学では全国唯一の邦楽科でもある。

 「邦楽技能者育成会で五線譜の読み方も教えてもらいましたが、三味線にはもともと楽譜はありません。研精会の素晴らしい功績のひとつが、研精会譜というものを発行したことなんです。これは革命的だったと思います。長唄を、一般の人にもわかりやすくするという意味があった。それまでは、譜面といっても各流派の中だけの譜しかなくて、この研精会譜ができたおかげで三味線の門戸も広がりました。ちなみに長唄三味線の曲を五線譜で表すこともできますが、ものすごく複雑になります。五線譜に書き起こしたのですが、あまりにも大変な仕事で、数冊ほどで断念したそうですよ」

『越後獅子』の旧来の譜(左上)、研精会譜(右上)、五線譜(中央下)

 「研精会譜」(または「小十郎譜」)とは、大正年間に四世吉住小三郎の弟子である吉住小十郎によって考案されたもの。縦書きで、1~7の数字を西洋音階のド~シに当てはめ、一の糸の開放弦をシとして、ハ長調、基本的に四分の二拍子で表記する。オクターブは数字の右(1オクターブ上)と左(1オクターブ下)に付く「・」で表す。「・」は2つまで(2オクターブの上下)。
 なお、三世杵屋六四郎は1926(大正15)年に「稀音家」に姓を改め、それ以降、同門は稀音家を名乗っている。稀音家一宣さんの名前のルーツもここにあるのだが、なぜ、家名を変えたのか。それには研精会などの新しい試みを打ち出すにあたっての反発もあっただろうし、何よりも本家本元の「杵屋」に遠慮したのではないかという見方もあるようだ。
 「稀音家」というしゃれた字面の名前の由来は、三世六四郎の父親が初世稀音家浄観(1908年から)を名乗ったことにあるのだろう。もっとも、杵屋の祖である名跡、杵屋勘五郎の三世が別号として稀音家照海を名乗ったのが「稀音家」の元祖なのだそうだ。
 そして、初世稀音家浄観の実子が三世六四郎(後の二世浄観)、孫が四世、曾孫が五世、玄孫が当代という系譜になる。

三味線という和楽器

 三味線は大きく3種類に分けられることは前述したが、その特徴や構造はどういうものなのか。再び大辞林に聞いてみよう。
――撥弦(はつげん)楽器の一。猫皮・犬皮を張った胴に棹をつけ、三弦を張ったもの。撥(ばち)で奏する。棹の太さによって太棹・中棹・細棹があり、太棹は主に義太夫節、中棹は河東節・常磐津節・清元節・新内節、細棹は長唄・小唄に用いられ、また太棹と中棹の中間のものが地歌に用いられる(地歌三味線)。主要な調弦法は、本調子・二上り・三下りの3種である。起源については諸説あるが、永禄年間(1558~1570)琉球の三線(さんしん)(蛇皮線)が大坂の堺に伝来し、琵琶法師によって改造されたという。――

左からカンガルー皮、犬皮、猫皮の長唄(細竿)三味線。右は象牙製の撥

 これも若干補足すると、その後さらに多くの改良が加えられて、伝来から約30年を経て安土桃山時代にほぼ現在の形に至ったとされている。その操作性の面白さや幅広く応用が利くことから、江戸時代に至って広く一般庶民の間に普及した。
 ただ、普及の背景には、江戸時代に行われた音楽・楽器に関する規制があったようだ。雅楽は貴族、能楽は武家、箏曲は盲人、尺八は虚無僧という縛りがあり、広く一般庶民が手にできたのが唯一、三味線だったというのである。しかしそのおかげで、260年以上にも及ぶ江戸時代を通じて、人々は三味線の技巧を極めることに傾注できたともいえよう。
 そして、三味線は単なる「撥弦楽器」とはいえない、ならではの音の特徴があるというのは一宣さん。

 「糸だけを弾くのではなく、撥で皮を叩いてリズムを刻むというのが、三味線ならではの特徴です。だから人数が多くなると、そのリズムが際立ってくるので、弾いていてとても面白いし楽しい。私は、三味線は弦楽器ですが、打楽器の要素も持っているという言い方をしています」

 詳しくは後述するが、木枠に動物の皮が張られている三味線の構造は、いわば和太鼓のそれと同じだ。さらに言えば、和太鼓を打つのもバチならば、三味線を弾くのも撥なのである。
 もちろん三味線の場合は、胴の部分では糸を叩き、棹の部分では(左手指で)糸を弾くという、2種類の異なる演奏技法が組み合わさった独特のものだ。そして、その奏法ゆえに、胴皮には撥皮というものが貼ってある。撥を打ち付けた痕は、3本の弦それぞれに対応する3カ所のみに付くのが理想で、上級者になると、針の孔ほどの痕が綺麗に3つ一直線に並ぶという。ただし、津軽三味線などは縦横に撥を振るうので、全面(といっても弦を挟んで下半分)に撥皮を貼る。

 「撥皮が傷むと自分で貼り換えます。そのときに撥の痕を見て反省することもあります。音域も3オクターブくらいで、けっこう広いです。調絃が本調子、二上がり、三下がりとあって、二上がりが一番共鳴します。三本の糸が共鳴して華やかな音色になる。三下がりは、落ち着いた、しっとりとした音色になります。演奏の難しさは、やはりギターのフレットのような目印がないこと。勘所(かんどころ)という自分の感覚に頼るしかなく、それが難しい。棹の長さや胴の大きさは決まっていますが、関西のほうが少しふくよかな胴になっていますね。江戸のものはスッとしています」

 三味線は全長97センチメートルでほぼ統一されているそうで、大きくは棹と胴、皮、糸で構成される。一つひとつ手づくりであり、素材も高価なものが多いため、一般的にかなり値が張る。稽古用でも8万円~、専門家が舞台で使用するクラスになると200万~300万円にもなる。しかも舞台用ともなると、例えば歌舞伎などでひんぱんに使うと、10年ほどで耐用年数を迎えてしまうそうだ。

 「三味線は消耗品。200万円くらいする三味線でも、いざ手放すとなると単なる中古品で、二束三文です。バイオリンなんかとは全然違いますね」

 棹の素材は、高級品では紅木(こうき)。他に黒檀や紫檀もある。稽古用には花梨の棹もあり、以前は樫や桑も多く使われていた。最近ではスネークウッドが使われたり、特殊なものとして小唄では白檀や鉄刀木(たがやさん)が使われたりもするそうだ。
 いずれにしても、堅く緻密で比重の高い木がよいとされるが、それぞれ重みや手触りは全く違う。なお、紅木や黒檀などほとんどの材は、インドやスリランカからの輸入品に頼っている。
胴はすべて花梨。また、高級品では、胴の内側の面に「綾杉」という細かな模様を一面に彫り込む。琴の胴にも施されるが、響きをよくする効果があるとされている。

 「三味線屋さんによると、胴が鳴るだけではなく、棹も鳴るんだそうです。棹の材質の堅さと胴の材質とのバランスが大事なので、三味線屋さんは、私たちにまず棹を決めさせますね。その上で、それに合う胴を付けてくれるわけです」

三味線の胴と天神(糸巻や糸倉からなる最上部の総称)

 そして、三味線と言えば猫の皮を思い浮かべる人が多いだろうが、実際には犬やカンガルーなどの天然皮に加えて、合成皮も使われている。
 ただし、猫皮がやはり高価。1匹から一挺分しか取れないこともあり、舞台用などの細棹、中棹の高級品に使われることが多い。毛穴が小さくて薄く、抜けのよい軽やかな音が特徴だ。若いオス猫の皮が良いとされている。
 稽古用や太棹には、猫皮よりも丈夫な犬皮が使われる。1匹から数挺分が取れるが、猫に比べると硬い音色になるという。なお、津軽三味線に必ず犬皮を使うのは、胴部分を撥で激しく打つ奏法のため、耐久性が必須となるからだ。
 とはいえ、猫皮も犬皮も、動物愛護の観点から入手は困難になっており、現在ではどちらもほぼ100%が輸入。しかも今後は価格高騰の恐れ大だ。いずれは供給が完全にストップしてしまう可能性もある。我々が守るべき伝統芸能である三味線にとって、深刻な問題である。
 そこで登場したのが、カンガルーの皮を使う試みだ。オーストラリアではカンガルーが人口の2倍以上生息しているとされ(人口約2500万人、カンガルー5000万頭以上)、害獣駆除として年間3万~7万頭が処理されている。それを有難く利用させてもらおうということ。肝心の音色だが、実はカンガルー皮は三味線との相性がよく、犬の皮に比べ滑らかで、音も響きやすいという。三味線には打ってつけの材料といえるのだ。

 「カンガルーの皮は1頭からたくさん取れるので効率的だし、長持ちするし、猫皮と比べて音質的にもあまり遜色ないと私は思います。猫になぞらえて乳の跡を描いているカンガルー皮のものもあって、見た目もあまり違わない。実は終戦後間もなく、いずれ猫皮は供給されなくなるからと、芸大の先生たちがウサギとかいろいろな皮で試したそうです。そのときにすでにカンガルーの皮がいいという意見が出ていたとか。それから70年くらいたってようやく一般化して、普及してきました」

 最後に合成皮。破けやすくて管理の難しい従来の三味線の皮に対して、丈夫かつ動物愛護の問題をクリアするという名目で1980年代に登場した。ところが実情は、熱に対して天然皮よりもむしろ弱く、音色も「それなり」だとか。動物愛護に敏感な外国人のお土産用には最適かもしれないというレベルだろうか。

 糸の基本的な素材は絹だが、化学繊維(ナイロン、テトロン)製もある。また、三の糸(一番細い糸)のみ化繊糸という選択もあるそうだ。
 津軽三味線などでは、一の糸は絹糸のみ、二の糸は絹糸と化繊糸、三の糸は化繊糸が主流。三線(蛇皮線)では、3絃ともテトロン製の化繊糸を使用することが多いという。
 ただ、音色や余韻の深みは、やはり絹糸ならでは。邦楽器糸のメーカーによると、一の糸ではおよそ3400本もの繭糸を束ねて撚りをかけているとかで、その厚みが複雑な空気の振動を生み出しているのかもしれない。
 ところで、邦楽器糸には黄色と白色がある。琴糸は現在では白色が主流だが、三味線糸は黄色。本来、繭には白繭糸と黄繭糸があり、江戸時代頃までは黄繭糸も多かった(現在、大部分の生糸は白繭糸で、黄繭糸は東南アジア地域でわずかに生産されているのみ)。また、絹糸は空気中の酸素や紫外線によって黄変しやすく、必然的に和楽器絃として使われる糸は黄色っぽくなっていたであろうことは、想像に難くない。
 明治以降、繭糸が白色になっていったが、伝統として黄色の糸を残すために、初期はくちなしの実で染め、その後はウコンを使って染色したのではないかと考えられている。

 そのほか、糸巻(ギターで言うペグ)は、黒檀、象牙などが素材となる。アクリル製もあるそうだ。
 撥も象牙。地唄などでは薄くてしなやかな鼈甲(べっこう)の撥を使う。稽古用としては樫製のものもあり、先端部分に柘植の木を合体させてあるものもある。
 時代劇では三味線の撥を武器にする場面があるが(『必殺シリーズ』の山田五十鈴が記憶に残る)、琵琶の撥は実際に武器としても使われたという。
 また、撥は鉛を仕込んで重さを調節できるようになっている。単位は匁(もんめ、1匁=3.75グラム)で、一宣さんで18から20匁。子供だと15匁、男性だと25匁くらいが標準となる。

 三味線という楽器の特徴として、保管の難しさがある。基本的に、動物の皮を木製の胴に糊(餅粉を水で練ったもの)で張りつけるのだから、高温と多湿に弱い。しかも美しい音色を生み出すために、皮が限界まで引っ張られているのだ。
 「ウチにも15、16挺の三味線があります。その多くは稽古をやめられた方から『使ってください』と譲っていただいたものです。ただ、保管は本当に大変です。三味線箪笥という桐の箪笥に保管しますが、これも稽古をやめた方が譲ってくださったりします。三味線はデリケートで、湿気や熱はもちろん、気圧の変化にもとても弱い。台風が来ると皮が破けることもあります。犬皮は猫皮よりは丈夫ですけれど、それでも破けます。三味線屋さんは台風が来ると仕事が集中して大変なんだそうですよ。かつてはプラスチック製の三味線もつくられたことがあるのですが、皮が硬くて手が痛くなり、ナイロンの糸だと指も痛くなるし、あまり普及しなかったようです」

三味線、今昔物語

 西荻窪で生まれ育った一宣さんにとって、我が町で三味線や邦楽が盛んだったという印象は特にはない。ただ、三味線の稽古をしている人はある程度いたように記憶しているそうだ。

 「かつては、どこの町内にもけっこう三味線のお稽古をしている人がいて、西荻でも25、26年くらい前までは、街を歩くと三味線の音があちこちで聞こえていたものです。でも、最近は全然聞こえないですね。街の旦那衆のお家に出向いて稽古をつけるといったことも収入のひとつになっていた。昭和の時代まではお稽古する人も多くて、おさらいや踊りのおさらいもたくさんありましたが、平成になって以降は下火になる一方ですね。家元であっても稽古に来る人が少ないそうですから、男性のお師匠さんたちは特に大変だと聞きます」

 名取になりたての頃、和三助師が花柳界に稽古所を持っていたので、一宣さんも三味線の稽古に来る芸者衆に触れる機会も多かった。
なかでも神田明神界隈の芸者は「講武所芸者」とも呼ばれ、格式も高かった。洋髪は許されておらず、必ず日本髪を結っていないといけない。お正月は黒紋付に稲穂の簪というお決まりの正装で歩いていたという。

 「講武所に稽古所があったのは師匠の最晩年の頃ですが、そういうお姐さん方に出会えたりして、とても楽しかったです。芸者衆とお座敷遊びをする旦那衆は、長唄などを嗜みますから三味線は必修で、芸者衆はみんなお稽古に来ていました。けれども、今はそんな高尚な趣味を持つ旦那衆はいなくなっちゃいましたから、花柳界そのものも変わってしまったということでしょうね」

旦那衆の嗜みということでいえば、小三八師が名古屋の名鉄グループの社長たちに稽古をつけていたことがあり、一宣さんも同行したことがあるそうだ。

 「皆さん、『芸どころ名古屋』ということもあってお付き合いで習っているので、上手くなってやろうという意識より、ただ長唄を習っていること自体が大事。年に一度ある発表会のお手伝いにも行きましたが、長唄を嗜んでいることが自分の成功の証、みたいな感じでしょうか。それこそ、人間国宝にもなられた小三八先生に習っているという事実こそが大事なんです。だから、おさらいの会もものすごく派手で、三味線を弾く私たちは不要なのでは? というくらい、ただ歌詞を楽しんでいるだけ、みたいな方もいて(笑)。でも、いい時代でした」

 そもそも、三味線や長唄を聞く機会が少ないということが、下火になった原因でもあるだろう。誰でも耳にすることができるのは、NHK-FMでわずかに放送している番組くらいか(NHK-FM「邦楽のひととき」毎週火曜日が長唄。ただし月末は小唄・端唄)。

 「その放送時間が午前11時20分から50分。再放送が、翌日の朝の5時20分から……。私も出演することがありますが、録音じゃないと聞けませんよね(笑)。本当に寂しい限りです。もう少し邦楽や日本舞踊が盛んになってくれるといいんですが……。津軽三味線も一時期盛んでしたが、今はかなり下火になっています。三味線人口全体が減っちゃっている感じでしょうか。ですから、寂しいことに三味線屋さんも廃業する所が多くなり、私たちも心細い限りです」

 もちろん、教室に通ってくる生徒の中にも、三味線の将来を担うべき若い人はいる。
その一人は、最近イギリスのロンドンに移住して、そこを拠点にして三味線広めたいと言っているそうだ。

 「彼女は中学校に上がる頃に初めてウチにお稽古に来ました。というのは、東京藝術大学の邦楽科に行きたいけれども、少しでも早く始めたほうがいいということで、ちょうど藝高に長唄三味線の専攻科ができるという時期だった。その受験のためにお稽古に来たんです」

 藝高とは東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校のこと。そこに長唄三味線の専攻科ができたのは2001年で、尺八・邦楽囃子とともに新設された。彼女は長唄三味線専攻の一期生になったわけだ。その後、東京藝大の邦楽科に進んだという(ただし藝高から藝大への内部入試はなく、一般入試を経なければならない)。

 「最初の頃は、藝高の三味線専攻の応募者もたくさんいたそうですが、今は減ってしまったようです。三味線をやる若い人が少なくなっているのでしょうね。その一方で、歌舞伎座などで三味線を弾く若手がいないのかというと、そうでもない。今は、例えば芸大を出てもお稽古してくれるところも、する人も少ないですし、踊りをやる人も少なくなっていますから、地方(じかた)さんの仕事も少ない。だから、歌舞伎座の地方さんに入ったりするのが一番人気で、むしろ今は若い子がたくさんいます」

稀音家一宣さんの稽古場、おさらい会『ともゑ会』風景
稀音家一宣さん提供

 三味線には厳しい時代なのかもしれないが、一宣さんは「三味線を聞いてもらう機会を増やすことさえできれば……」とも考えている。
 学校(主に小学校)で三味線の演奏をする活動も長唄協会で行っているが、演奏後、児童たちが『すごくよかった』とか『懐かしい感じがした』といった感想をくれるそうだ。
 長唄協会では、伝統芸能の保存に向けて文化庁の呼びかけで『キッズ伝統芸能体験』という事業を行っている。これは都内在住の小・中・高生を対象に毎年8月から3月までの約半年間、長唄三味線の講習会を開き、3月末に国立劇場で発表会を開催する。その中から三味線に興味を持ち、お稽古をしたいという子供たちを育てようという試みである。
 「実際に聞く機会さえあれば、三味線を弾いてみようかなという気持ちになってくれるのかなと思いますね。ウチの生徒さんについてきたお子さんやお孫さんなんかも、『三味線の音って、いいね』と言うんです。それで、弾きたいと思ってくれて、音が出るととても喜んでくれます。だから私たちは、まずは聞いてもらう機会をもっと増やさないといけないんだと思っています」

文:上向浩 写真:澤田末吉

参考文献
『まるごと三味線の本』(田中悠美子/野川美穂子/配川美加編著 青弓社)
『三味線とその音楽』(東洋音楽会編 音楽之友社)
『三味線音楽史』(田辺尚雄著 創思社)

*稀音家一宣長唄三味線教室に関するお問い合わせ
E-mail info@officeokumura.com
広報担当:奧村

初代精神を今も育む 三仁堂薬局

片桐秀子さん
 西荻窪駅から五日市街道へ向かい、銀座通りを進むと右側に大きな店構えの三仁堂薬局があります。現在は三代目の片桐秀子さんが中心になって店の切り盛りをしていますが、秀子さんの母、禮子さんも店に出て、元気に顧客の対応に勤しんでいます。伺った日は三の市とかで、足裏での重心測定をしながら、お馴染みさんの健康を気遣う姿が見られました。

 薬を買いに来る人、測定をしに来る人で、店内はまるで病院近くの調剤薬局のような盛況ぶりです。店内の雰囲気も独特。歌を口ずさみながら歩く人、片桐さん親子と世間話をする人、薬の説明を受ける人と様々ですが、みんな楽しそうです。

 秀子さんの祖父、明治33年生まれの吉太郎さんが昭和5年、現在の場所に薬局「三仁堂」を開店しました。三仁とは、まずはお客さん、次に従業員、そして家族、この三者が丸くおさまって始めて商売は成り立つとの思いが込められています。

 奥の壁には昭和12年に撮影した店の写真が飾ってあります。勿論、白黒で看板文字は今とは逆の右から左。近所の高木写真館さんが撮ったものと思われますが、変色もせず見事に残っているところをみると、相当な腕前の写真師が「三仁堂さんのためなら」と力を込めて仕上げた様子が伺えます。初代、吉太郎さんの人となりが浮かぶ写真です。間口は現在より広く、店前の街頭もたいそう立派で、昭和初期の西荻窪銀座通りを髣髴とさせます。

 それから数年して、時代に暗雲が立ち込め始めたころ、西荻窪界隈には軍人さんの家が沢山あったので、吉太郎さんは一軒一軒注文を取って回り、商いを続ける一方、西荻窪衛生班の無料奉仕をして地域に貢献していました。三仁堂の精神が、ここにも息づいています。

 二代目朝良さんの妻、禮子さんは今年、八十歳を迎えましたが、数年前からジムに通い、山歩きをして身体を鍛えています。溌剌と顔色もよく、自ら薬に頼らない高齢者の健康づくりの実践をしています。家事を一手に引き受け、お店にも顔を出して秀子さんの手伝いをするほどお元気です。

 今でも馴染客と会話を交わし、元気な顔を見るのが生き甲斐になっているようで、今は亡き常連客がローソクを「お灯明」「「御明し」と言って毎月買いに来られた話などを懐かしそうに話していらっしゃいました。

 三代目の秀子さんは、三仁堂の精神を大切にしながらも、新しい経営感覚を取り入れ、ホームページを通じての健康情報の発信をしています。「うちは調剤薬局の資格を持ちながら、ドラッグストアにないきめの細かさでお客様に接していきたい」と話されました。

 人間の自然治癒力とか、自然なモノの持つ力とか、そういうことをもっと大切にすべきだと思います。骨粗鬆症、貧血、便秘などは食生活を見つめ直すことで、かなり改善するはずです。風邪をひいても漢方薬で治るくらいの体力を維持できるような「身体づくり」をすることが大事。そのため自然の恵みに育まれた健全な食事が大切です。もう一度生活を見直し、親の務めや自己管理の向上についても真剣に取り組んで欲しいと願っています。それを実現するためには、顧客との対話を大切にして、必要な情報を提供できる店にならなければ、と日々努めているのです」と秀子さんは話していました。

 店内は、漢方あり、化粧品ありで特別に変わった薬局ではありませんが、違いがあるとすれば、薬を売れば薬局の仕事は終わりとは考えていないということでした。人と人とのつながりを大切にしながら、顧客の気持ちになって商いをしているのがよく解りました。

三仁堂
ホームページ http://www.sanjindo.jp/
東京都杉並区西荻南2−21−10
03−3333−1320
9:00-19:30

定休日 日、祝日、年末年始

文:澤田末吉 写真:富澤信浩

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隣りまち、武蔵野プレイス訪問記

 最近図書館を利用したことがありますか。何十年も前、受験生のときに利用しただけでそれっきりという人は、図書館の変貌ぶりに驚くに違いない。咳ひとつはばかれるような静かな館内、本の匂いが醸し出す重苦しい雰囲気、カードを繰って図書を探す面倒な手間など、図書館のイメージには暗いイメージしかなかったが、今、様変わりである。館内は明るく開放的で、図書を探すのもパソコンで簡単に見つけることができる。ライブラリアン(司書)の方が笑顔で迎えてくれる、そんなことが多くなったように思うのは気のせいか。
ライブラリー・オブ・ザ・イヤー(NPO法人知的資源イニシアティブが2006年から年ごとに実施)という図書館を対象にした賞がある。そこで大賞に選ばれた図書館の選定理由を見ていくと、近年の図書館の変化の傾向が表れているように思われる。データベースの活用や蔵書の横断検索、デジタル・アーカイブの作成など図書館サービスのデジタル化の動き、街づくり、地域活性化の拠点としての図書館サービスの展開など、図書館がたんなる本を貸し出すところではなくなっていることがよく分かる。

  JR武蔵境駅前の一等地にある武蔵野プレイス

複合施設の武蔵野プレイス
そうした変化の先端を走っている図書館として話題を集めている武蔵野プレイスを訪ねて、いろいろとお話を伺った。武蔵野プレイスは2011年7月に開館した武蔵野市立の公共施設である。JR武蔵境駅前の一等地にある。西荻窪地域を本拠地としている『西荻春秋』としては対象地域から少し外れるのでは、という声も聞かれそうだが、武蔵野市は杉並区の隣、松庵舎とは路一本を隔てただけなので、今回はほんのちょっとお隣にお出かけという感じで訪問することにした。
武蔵野プレイス館長の斉藤愛嗣さんに説明して頂いた。「武蔵野プレイスは図書館ですかとよく聞かれるのですが、図書館だけでなく生涯学習支援、青少年活動支援、市民活動支援の4つの機能が融合された複合施設だと返事しています。」と最初に話された。つまり図書館を核にして他の3つの支援サービスが一緒になった施設というわけだ。

館長の斉藤愛嗣さん

    様々な「市民活動」や「アクション」に触れることができる複合施設

武蔵野プレイスのホームページから引用すると、

人々が日常生活において、自主・自発的に読書や学習を継続できる機会や、身近で行われている様々な「市民活動」や「アクション」に気軽に触れることができる場が重要です。武蔵野プレイスは、この“気づき”から始まる「アクション」の連鎖が起こり得る「機会」と「場」を提供し、支援していくことをめざしています。

 とある。利用者が他の活動に気づいてそれに参加し、新たな活動を始めていくという連鎖が起きる、あるいはそのための機会を提供する場所だという。武蔵野プレイスは、単に異なるサービス、機能を同一の建物内に設けただけの施設ではなく、そうした機能が融合していくことを主な狙いにした複合施設であるという。

透明性を高めたデザイン、日本建築学会賞受賞
館内のデザインも壁がなく、ガラス張りの部屋が並んで開放的だ。「会議室、スタディコーナーなど皆オープンにし、それぞれの活動が外からすべて見えるようにしてある。図書館のある2階と地下1階を除いて、同一のフロアに異なるサービスのエリアを置くようにしています。気づきを促すように廊下もなくし、分け隔てをなくした透明性を高めた設計になっています」。3階には市民活動エリアと生涯学習支援のスタディコーナーがあり、1階にはマガジンラウンジとギャラリ―、カフェ・総合カウンターが、そして地下2階にはアート&ティーンズライブラリーと青少年活動支援のスタジオラウンジ、オープンスタジオという具合に違った機能(サービス)のエリアが同一フロアの設置されている。

           レストラン&カフェコーナーとメニュー

 透明性を高める仕掛けとしてもう一つ斉藤さんが強調されたのは、「フロアをつなぐ回遊(らせん)階段が2か所に置いてあります。4階と3階をつなぐところと、地下1階と同2階をむすぶところです。普通ですと階段はフロアの隅にあったりしますし、エレベーターで目的階にスッと行ってしまったりしますと、なかなかほかの活動に眼が行きにくいですね。回遊階段はできる限りそういうことがないようにしてほしい、という狙いから設けたものです」。斉藤さんはブラウジング(ぶらぶら見て歩くこと)という難しい言葉を使われたが、「言い換えますとね、館内を回遊していただくことで“気づき”のきっかけにして欲しいし、ある一つの目的で来館されても他の機能、サービスに気づいて利用していただきたいということです」。
こうしたデザインが評価されて武蔵野プレイスは、2016年日本建築学会賞(作品)を受賞している。選定理由に、「4つの機能は、いったん数十個のルームに割り振られ、吹き抜け空間とともに立体的に組み上げられている。ルームのつながりを重視し、廊下を排除することで人々の活動が自然に混じり合い新たな発見とアクティビティの創出を目論んだものであるが、見事に成功しており、本作品の最大の魅力となっている。」とある。

   透明性を高めるためガラス張りにしたスタディコーナーとレンタル会議室

 ――実際に利用者が“気づき”によって他のアクションにつながっていったという例を紹介して頂けますか?
「具体的にと言われると、なかなかお答えするのは難しいのですが…、三階に貼ってあるポスターやチラシなどは市民活動団体のものに限定しています。『あ、こういうことをやっているんだ』と、様々な活動に気づいてほしいわけです。イベント参加者にアンケートで、『このイベントを何で知りましたか』と聞くと、『館内の掲示で知った』という回答が数多く、図書を借りに来て館内でいろんな行事をやっているんだなと知る(気づく)人が大勢いらっしゃることは間違いなく言えると思います。」

300を超す市民活動登録団体
――市民活動団体にはどのようなものがありますか?
「いま300を超える団体が登録しています。趣味や教養、福祉のグループ、社会活動の団体など幅広くあります。例えばペットロスを乗り越えるための活動をしている団体、視覚障害のある方に絵画を楽しんでもらうための活動をしているグループ、空き家対策の活動をしている集まりなど、本当にいろいろあります」。館内に置かれている「登録団体一覧」を分野別に見ると、多いのは福祉関係、社会教育、学術・文化・芸術関連などが目立っている。館内でのこれらの市民団体が企画するセミナーなどのイベント(事業)も盛んだ。
――セミナーの内容などについて何か制限はありますか?
「基本的に公共施設なので政治、宗教、営利活動はだめです。それ以外であれば使用目的は制限しません。3階に有料の貸し出しスペースとして5つ会議室があるほか、少人数でミーティングができる無料のスペースがあります。4階に講座・講演などに利用できる最大150人収容のフォーラムもあります。」平成29年度に市民団体が企画した事業には、「認知症になっても怖くない!iPadを使って外に出よう!」「日常に潜む性の搾取から子どもと若者を守るには」などが開かれたほか、市民活動支援事業として啓発事業なども行われている。

市民活動フロアーと資料

大学生とともに授業を履修、自由大学
――生涯学習支援サービスですが、主な対象になるのはリタイアした高齢者ですか?
「いや、リタイアした人だけでなく全世代が対象となります。若い人たちには学校以外の教育と考えてほしい。実態としては集まる人の多くが40代以上の人ということになりますが、土・日に関連の行事を開くと20代、30代の人たちも参加します」。やはり同年度の事業の主なものをみると、小・中学生向け事業で「読む|聴く|伝える|ことば探検隊」が全4回で開かれたほか、子育て中の方を対象に「アンガーマネジメント講座」、勤労者向けにはキャリア養成講座「大人の学び場」(全5回)、高齢者向けには「いきいきセミナー」(前・後期各13回)などが開かれている。各世代に向けていろいろな講座が開かれていることが分かる。
このほか特筆すべきことは、武蔵野地域にある5大学と連携した事業があることだ。5大学は東京女子大学、日本獣医生命科学大学、亜細亜大学、成蹊大学、武蔵野大学。その事業の一つが、武蔵野地域自由大学である。自由大学は、4大学(東京女子大学を除く)のキャンパスで現役の大学生と一緒に正規科目の履修ができる仮想大学である。正規科目の履修には、同年度に301名もの市民が参加している。またもう一つが、武蔵野地域五大学共同講演会・共同教養講座。これは各大学の協力を得て、市民を対象にひらかれる講座である。連続6回の共同講演会や20回連続の共同教養講座が開催される。
――履修して単位をとると、何か資格が取れるような仕組みになっているのですか?
「そこまではやっていないのですが、正規科目を履修すると単位でなく1ポイントが付与されます。これだけでなく他の講座・講演会でもポイントが付きますが、これが20ポイントになると市民学士、30ポイントになると市民修士というように武蔵野地域自由大学独自の称号記を授与しています。生涯学習への意欲を持っていただくためです。さらに、われわれの願いを言わせてもらえば、この自由大学の卒業生が同期会として市民登録団体になれるのですが、登録団体として他の活動につながって行ってほしいな、という思いがありますが」。

青少年の「居場所」に
――青少年活動支援にあるスタジオラウンジというのはどういう機能を持つのですか?
「青少年の情報交換の場として設けたオープンスペースです。いくつかあるスタジオのうち一番大きなものですが、友達同士で話してもよいし、飲食もできますし、読書してもいいです。ルールはほとんどありません。何をしてもよいスペースです。このほか楽器練習のできるサウンドスタジオ、ダンスや演劇練習のできるパフォーマンススタジオ、身体が動かしたくなれば、オープンスタジオに行って卓球やボルダリングが楽しめます。それから簡単な調理・工芸ができるクラフトスタジオもあります。」スタジオはいずれも地下2階にある。パンフレットには「青少年の『居場所』として、様々な交流や活動、情報交換を支援し、青少年の社会生活の充実を図ることを目的としたフロアです」と説明されている。
――青少年たちは夜10時まで居られるのですか?
「はい、居ることができます。ただ小学生は5時で帰ってもらうようにして、その時刻になるとアナウンスも流しています。当初、不良のたまり場になるのではないかという心配もありましたが、そのようなこともなかったですね」。
武蔵野プレイスの1階にはカフェがある。ここでは食事ができるしアルコールもサービスされている。食事をしながら歓談するもよし、お酒をのみながら本を読むこともできる。ビールが620円、コーヒーが380円、オムライスプレートが1090円といった値段。開館時間は夜10時までなので、会社帰りにここで食事を済ませてしまう人もいるだろう。最後に武蔵野プレイス像を数字からとらえてみよう。

年間200万人に迫る来館者

 ――武蔵野プレイスの来館者数はどれくらいですか?
「年間約195万人、1日平均6353人になる。多い日にはこれが1万人に達することもあります」。近隣の市区に比べると断トツの人数である。「来館者の年齢別構成は、10歳代が36.6%で一番多く、20歳代と60歳代が10%を切るほかは各世代とも10%台となっています。全世代に利用されているうえに、図書館以外の利用が多いこともうれしいですね。利用場所は青少年活動向けが10%を超えています。もちろん一番利用が多いのは図書館でして、来館者のほぼ6割が3フロアにわかれた図書館のいずれかを利用しています」。館長の話は続く。「武蔵野市には図書館が3館あって、武蔵野中央図書館と吉祥寺図書館、そして武蔵野プレイスになります。3館合わせた武蔵野市全体での住民一人当たりの貸出冊数は17.2冊(年間)です。おそらく都内では一番多いのではないか、全国平均が約5冊ですから凄い数字です」。
多くの青少年に利用され、図書館も利用されていることも分かったが、そこで気になったのは、若い人がどのような本を読んでいるのか、ということである。若い人が本を読まなくなっていることは、以前から知っていたわけなので。武蔵野プレイスだけを取り出して、どんな本が貸し出されているかは分からないが、武蔵野図書館全体の貸し出しベスト(5月―7月)を、図書館のホームページで見ることはできる。YA(ヤングアダルト)に人気のある本は、〈文学一般・日本文学〉のトップ5はいずれもエンタメ系の本ばかり。いまさら鴎外・漱石とはいわないがいわゆる純文学系はなし。〈外国文学〉では『夜と霧』『アンネの日記』『老人と海』の3冊だけが表示されて以下はなし。〈歴史・伝記・地理・旅行〉にいたっては「該当データが見つかりませんでした」と出力された。
若い人の読書調査によれば、小中高校生の読書時間調査(全国学校図書館協議会と毎日新聞社調べ)で、1か月に1冊も読まないと答えた高校生は55.8%にも及び、小学生で8.1%、中学生で15.3%だった。せっかくの子供のときの読書の習慣が身についていないことが分かる。大学生(全国大学生協連合会の調べ)は、一日平均の読書時間は23.6分、0分がなんと半分を超える53.1%もある。前に大学生から「アルバイトに追われ本を読む時間がありません」、と聞いたことがある。学費を稼ぐためにアルバイトをする苦学生なのかなと思ったが、大半の学生はスキーや旅行に行く費用を手にするためだと知って呆れたことがある。学生よ、もっと本を読もう。マララさんのスピーチではないが、1冊の本があなたの人生を変えることがあるかもしれないのだから。

芝生は緑が
――ところで正面入口前にある広場ですが、季節になると緑の広場になるのですか?
「いえ、なりません。写真にもあるように昔は緑の広場だったのですが、大勢の人に踏まれてはげてしまって、あのような状態になってしまいました。何度か緑にしようとしたのですが、もう養生はあきらめて止めました。養生するためには広場を囲って入れないようにするのですが、そうすると入れないと苦情が来ますし、放っておけばなぜ芝を植えないと言って苦情が来ます。正直いって、いまは何もしないことにしました」。取材終わって帰り道、広場を通りながら、やはりここが緑だと、ここに座って本を読んだり話をしたりできて気持ちがいいのだけれど、と残念に思った。

映画『ニューヨーク公共図書館』をみる
後日、映画『ニューヨーク公共図書館』を観た。今、進化していく図書館をみせられた。公共図書館がこんなことまでやっているのかと驚くばかりであった。上映時間が3時間25分にもなる映画で、図書館の舞台裏で何が行われているのか、長時間も気にならず興味深く見ることができた。この図書館の運営資金のおよそ半分が民間の寄付で賄われていることを知って、日米における、異なる図書館の歴史、伝統、役割、その差を生む社会の違いを考えさせられた。しかし、「青少年をいかに図書館に引きよせるか」「ベストセラーか学術書、推薦図書かの蔵書収集の基準」「デジタル化をめぐる問題」など、この公共図書館のスタッフが議論する個々の問題は、どちらにも共通しているなと思ったりもした。印象に残った言葉を一つだけ紹介すると、「図書館は本の置き場ではない。図書館は人」。人が活躍するからこそ進化が生まれる。この映画はお勧めです。まだ見ていない方は是非、ご覧ください。

                 文:鈴木英明 写真:澤田末吉+奧村森

父子 美への気もち  ― 奥村土牛と奥村森

「人間だからね、人間なんだから」

 人と関わって仕事をしていく中で間違ったり、思うように進まなかったりする時に、人を責めず柔らかく労わる言葉で、反面放っておけば安きに流れがちな己を律していく時の言葉だそうである。人として理想を掲げたとしても、振り返って恥ずべきことは役々多い。其れでも日々何かを良くしようと務める。それが「人間なんだから頑張ろうよ」なんだと奥村先生は言う。

語られることのない真実

 この記事は、これまで語られることのなかった先生の姿を描こうと思い定めた。何しろ記事を書く身にとって目の前30㎝まで大きな絵に近づいてしまって、その感想を書くようなもので至難の業である。先生と初めてお会いしたのは16年程前で、約8年前からは小さな地域のカルチャー教室「松庵舎」で講師をしていただいている。だからこの記事を書いていいのかどうかも悩むところだった。けれども。人間だから、の視点を含みつつ、憶測や噂を信じてしまうのではなく、敢えて先生が語らなかったことに大切な想いが隠されている。その事を必要な人に伝えたいと願っている。

生い立ちと家族

 先生は日本画家・奥村土牛の四男で、父・土牛は明治末期から昭和にかけて地道で真摯なあゆみを続けた画家である。昭和22年、横山大観より芸術院会員に推挙され、昭和37年文化勲章を受章。杉並区名誉市民でもある。奥村先生は昭和20年4月、土牛56歳の時に長野県臼田町で生まれた。戦中の疎開先での誕生に両親は無事に育つかと心配をし、父は早く一人前になるよう時々に諭したそうである。本格的に絵が売れはじめ、食べられるようになったのは土牛65歳頃からであり、それまでは逓信省の下絵を描いたり、大学で教えたりしていた。近所に住んでいた吉川英治が子沢山を見かねて、顔が似ているという理由だけで毎日妻に食事を運ばせ、母仁子(きみこ)の姉・森静江が職業を持ち、義弟の家族を支えた。労わりあうよき時代でもあったのであろう。けれども一途に画道に邁進する姿勢と謙虚さ、そして素直さが家族や周囲の人にそのようにさせたのではないだろうか。先生の話される土牛像に素直なところが似ているので、それが自然なことと思える。そして大成するかわからない無名な画家を伴侶に選び、文句のひとつも言わずに支え続けた家族は稀有である。一人の人が或る才能によってひとかどの道を歩めたのは、そのような環境や支えがあってのことなのである。
 とは言ってもそこは明治の人であって、昭和27~30年頃、奥村先生の小学校同級生である冨澤君が、神田川に筏を作って浮かべようと遊びに行くと、画室で黙々と描く姿が見え、「ぎょろり」とにらまれたという。奥村家で同級生と漫才をやることになった時も、他の家族は子供のやることにお愛想でも笑ってくれたのに、にこりともせず「ぎょろっ」と見つめる土牛の姿が印象的だったという。日本画家として対外的に出会った方々の印象が夫々どうであったかはわからないが、家族の前での素顔の奥村土牛はとても素直な人であった。

私たちの願い

 奥村先生は土牛の人間としての真実の姿を伝えたいと願って活動をされている。普通は親の姿を伝える事に人生を費やしたりはしない。けれども一人の画家が誕生するためには玉虫色ではなく、家族中が苦労を共にしたり、犠牲になったりせざるを得ない。画家として認められるまでの遠い道のりを信じて、プライドを保ちながら邁進し続けるエネルギーを家族が与え続けなければならないのである。世の中がどのように扱おうと、作品はそこから誕生している。だから画家や作品を見つめるためには、真実こそが大事なのである。
 番組では「門」のスケッチ旅行に母・仁子とともに同行した記憶をたどり、「素顔の土牛の人となり」から生まれた作品について解説をする。『城』と『門』。二つの作品は国宝・姫路城を描いた数少ない作品である。そのエピソードは松庵舎講座「美を楽しむ」のレジュメに詳しく書かれているから、ご興味あれば読んでいただきたいと思う。(要お問い合わせ 松庵舎)
 そんな奥村先生をインターネットで検索すれば様々な情報が混在している。この記事の前に読んだ方もいらっしゃるだろう。一番有名なのは課税評価が決まる前に素描等を焼いたエピソード等が語られる『相続税が払えない』(ネスコ)である。インターネットには多くの人々が関心を持って書籍等に当たって感想を書いておられる。ただ本に書ける事には限界もあり、残念ながら先生が本当に大切にされたことはそこには見えてこない。美術界では有名な話であり、当時問題となっていたことは評価額の高い画家の絵を相続した場合、相続税額が現実に遺族が手にする報酬よりも著しく高いことだ。つまり相続税が払いきれないということである。その為に絵が闇に四散し、芸術的な国民資産が大切にされない事を危惧して、先生は努力されたのである。
 世の中の流れに任せて正面からの解決を諦めてしまうと、状況が良くならないばかりか、人の心も堕落の道をたどってしまう。どんなに自分が苦しい時でも、何かを善くするために一旦決めると、ご自身がどうなろうと無謀でも身体を張ってしまわれる。勿論、そんな先生でも人間だから、若い頃から失敗や恥も沢山かいている。失敗多き人間が正義を振りかざすように感じて先生をアナーキストと思った人もいるし、身近な人にとっては「なんでそんなことを始めるのか、大変なとばっちりを喰うのに」と思うだろう。『相続税が払えない』はそんな経験だったはずだ。けれども最後まで意思を通して美術品の相続税制度が変わるまで粘った。ご家族の苦労はそのようなことで心癒されるとは思わないけれども、芸術を大切にする人々にとっては一歩の前進であったことには間違いない。そこに先生の芸術に対する姿勢があるのである。
 そんな奥村先生が「素直」であると言ったら、不思議に思う人もいるだろう。「一度決めたら頑固」「しぶとい」と「素直」がどのように同居するのか。先生は他人の意見を聞く事にとても素直な人である。奥村土牛は「鳴門」を描いた際、当時高校生だった先生が鳴門の渦を「これシュークリーム見たいだよ」と言っても怒らずに素直に直しを入れた。奥村先生は、若者の意見にも真剣に耳を傾け、知らないことは知らないとはっきり言える素直さがある。
 奥村先生は地域の小さなカルチャー教室である松庵舎で、専門である写真と西荻春秋を作っている「ぶらり取材体験」という講座の編集長をしてくださっている。3か月に1度「美を楽しむ」という講座で、父・土牛の画業や子供の頃から触れてきた芸術家達の姿勢を伝えるお話しをする。奥村先生との間には、芸術に対する共通の「想い」がある。作品は「芸術的な価値」を見出される前に、その画家の生き方、つまり「人となり」が生み出したものであるということである。創作に向かう時、単なる思考的構築ではなく、内面を人間的哲学的に磨いて表現を高めていくことが芸術だと思っている。その考え方を拠り所として本質を研究することの重要性と、そうして初めて真実の姿が伝わるにも関わらず、それが如何に難しいか、である。反面、享受する側のわたしたちにとって、芸術は大抵必ずしも身近なものでも優しいものでもない。画家が絵に込めたもの、働きかけてくるものは見えているものだけに留まらない。絵を取り巻く社会も真実を見えにくくする。時として天空の存在へと祭り上げられたたり、全く見向きもされなかったりする。世俗的な評価が独り歩きしがちなのは、一般的にわかりにくいものに対して、かつてはその時代の権威、現在は人気等が投機的価値を持って芸術にまとわりついていたからである。だから誰かの価値観ではなく、自身の価値観で作品を味わってほしい。
 更にはもっと純粋に、時代が変わっても普遍的な価値を見つけ出せないものだろうか。人気によって高く評価された作品でも、時代が移り変わって誰も知らない画家になっていたり、良い作品であっても評価が低く、知られることなく埋もれて消えてしまったり。美術史上重要な人物の作品であっても、現代美術の人気作家より価格が低く設定されたりする。資本主義経済の中で生きてはいても、そこを重要視しない限り、本来、普遍的価値を持っているはずの芸術が、資本主義的貨幣価値へ変換されることに一喜一憂し続けなければならない。そのことに画家や遺族たちが人生を翻弄されることは、苦悩の道だと思われる。そのような思いを共有できるのが先生である。

 画家・奥村土牛の素顔や真実を語ることは時としてそのような美術界に、一石を投じてしまう。それでも、これからは真実を語り伝えるために、牛の歩み資料美術館の開設準備を始める。職人であり「芸術」ではなかった古から、芸術に依って生きることは難しいことであった。でも未来は芸術本来の作用や営みがより幸福なものとなるよう、私たちは努めなければならないと思っている。

文:窪田幸子(牛の歩み資料美術館室長 学芸員) 写真:奥村森

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「西荻春秋」から見える「すぎなみ学倶楽部」の魅力

 区民が録音機とiPhoneやカメラを携え、杉並の魅力を取材してウエブサイトに発信する活動。その媒体名を「すぎなみ学倶楽部」と呼ぶ。
 カテゴリーを「歴史、ゆかりの人々、スポーツ、産業&商業、食、文化&雑学、自然、特集、まち別検索、写真検索」に分類して掲載している。
 杉並区には、自治体、企業、団体、個人など、数多くのウエブサイトが存在する。商店や住民などに「あなたが知っている杉並のウエブサイトは(西荻春秋調査)」と質問すると、「すぎなみ学倶楽部」は圧倒的知名度を誇る。区が運営するウエブサイトだからだろうか。2016年に10周年を迎え、掲載記事は合計1000件を越えた。イベント活動など掲載から3年経過し、取材当時から内容が異なっていると判断した記事を3年前に30%削除して、現在、我々が目に出来る記事は1050~1060件になった。

目的と組織

 国は、地域参加を推し進める方針を発表した。団塊世代が退職して自宅に引きこもる現実、グローバル化や貧困、教師が手一杯な状況など、複雑化する地域の課題を人材の育成と活用で地域民みずからが解消する目的で考案された。
 その方針を受け、平成17年度に杉並区は、区民が好意度と愛着度、そして誇りを持って住み続けたい地域と思える町にしようと、杉並の魅力を内外に発信する「杉並輝き度向上」計画の取り組みを始めた。
 平成18年4月、「すぎなみ学倶楽部」は、その施策のひとつとして設置された。当初は、現在の杉並区協働推進課の前身であるすぎなみ地域大学担当課が担った。さまざまな杉並の魅力ある情報を、区民や他の地域に暮らす人々と共有し、発信することを目的とした、区が運営する区民参加型ウエブサイトである。
 元々は、杉並区役所区民生活部に協働推進課と産業振興課があった。協働推進課から事務事業が産業振興課に移管され、その産業振興課が本庁舎から荻窪に移転して産業振興センターとなった。「すぎなみ学倶楽部」は、観光的な要素も含まれるとの考えで、協働推進課から現在の産業振興センター観光係が担当することになった。
 杉並区産業振興センター・観光係は、「すぎなみ学倶楽部」運営などの事務を特別非営利活動法人TFF(チューニング・フォー・ザ・フューチャー/代表 手塚佳代子氏)と委託業務契約を結んでいる。その中には「区民ライターとの連絡調整」の一項も含まれている。
 観光係は、2か月に1回TFFと定例会議を開き、ウエブページの記事進行状況やアクセス状況の解析などについて討議する。そこでは、同分野が重複しないバランスのよい記事構成について、「クリック数、ページビュー、滞在時間」などの評価をどのように向上させるか、クレーム対策など、広範な内容が議題となる。
 観光係の近藤係長は「手塚さんは、『すぎなみ学倶楽部』の目的を理解するプロフェッショナル。他の自治体から、『区民参加型の公式ウエブサイト発信システム』を評価して視察の申し出もあるほどだ」と信頼を寄せる。
 ちなみに手塚さんは、制作会社に勤務した経験を生かし、人と情報をコーディネートするプロジェクトマネージャーである。TFF理事に加え、杉並区郷土博物館の運営委員も務めている。博物館からの報告を承認し、意見する役割を担う仕事だという。
過去と現在の記事を比較すると、当初の『すぎなみ学倶楽部』は、どちらかと言えば硬い表現が多く、長文記事が主流だったと記憶する。手塚さん率いるTFFが担当してからは、写真を大きく文章を少なくして読み物からインスタグラム風に転換したような印象を受ける。
 近藤係長は「ウエブサイトをどうしたらよいのか、区民ライターの記事を受け入れるだけではなく、ウエブサイトは多くの人に見られなければ意味がない。楽しい方向に成長したのではないか」と振り返る。

原稿づくりの現場

 区民ライターの目線で選んだ取材先を、TFFが整理して観光係に示す。近藤係長は、「読ませる記事ばかりでも嫌になる、写真ばかりでも物足りない、トータルバランスでよいウエブサイトを作ることを念頭に選択している」と語る。
 しかし、『ラーメン』をテーマにした情報、『ゆるキャラ』が伝える人気の『なみすけブログ』、『例大祭』日程などの情報、『貞明皇后 大河原家』や『中島飛行機』などの歴史記録、このような内容は注目度が高いので連載することもある。
 掲載テーマの方針が了承されると、いよいよ取材依頼に移る。区民ライターが先方に声を掛けるのが通例だが、観光係やTFFから連絡することもある。
 杉並区のウエブサイトなので一般人は勿論のこと、『時の人』や『著名人』も取材に快く応じてくれることが多い。元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高氏も快諾してくれたひとりだという。
 公共サイトなので、原稿が特定の内容や団体に偏らないような配慮が必要だろう。また、歴史認識や思い込み記事は、異なる見解があり、事実を曲げる可能性もあるので神経を使わざるを得ない。
 また、「すぎなみ学倶楽部」にはウエブサイト多言語版(英語、韓国語、中国語)もあるので、TFFでは、翻訳しやすい文章にするため、マニュアルに基づいた指導を行っているとのことだ。
「すぎなみ学倶楽部」を開始して2~3年は、研究者たちがライターとなり、自らの責任の下で自由に原稿を作成した時代もあったと聞く。観光係やTFFの人々は何も語らないが、ブログ発行元である杉並区にもクレームが及んだに違いない。その防衛手段として、いろいろな管理基準を設けたのだろうか。

 TFFスタッフは、経験の浅い人、不慣れな人、緊張して上手く出来ない人、ルール違反する人などには、取材が終了してからでは間に合わない場合もある。手塚さん自らインタビューに同行することもあるという。

 取材当時、観光係だった江崎(えさき)さんと出雲谷(いづもたに)さんも現場を訪れることがある。そして、TFFから届いた原稿を校正する。区の公式情報サイトなので、誰が読んでも解りやすい文章にすることを重視、また、余りに難しい言葉や漢字だと修正を入れることもある。
 このように重なる修正が入ると誤字脱字や誤認は解消されるが、統制された環境の中で個性がどれだけ発揮出来るのか、ライターのやる気を最後まで持続させられるのか、それが大きな課題となる。
「すぎなみ学倶楽部」に8年間関わり、これまで約40本の原稿を書き上げたベテラン区民ライター、中谷明子さんに訊ねてみた。
「私は、『すぎなみ学倶楽部』を情報サイトだと認識している。だから食の取材で『美味しい』ではなく『風味が豊か』と書く。『美味しい』という個人の気もちは、読者の気もちではないと考えるから」
 運営者よりも規制を遵守する意識が強いではないか。関わる人たちが一体となり、ルールを守る姿が印象的だった。
 更に、取材には高度な知識が必要だ。職人、芸術家、学者など、専門分野の話題を理解できなければ取材自体が成り立たない。手塚さんは「専門家の取材は、仕事についてインタビューするのではなく、杉並で何をしているかに主眼を置いている。大雑把に見て素人が理解できる範囲でよいと思っている。取材対象者に手間をかけた分、地域情報のプロである我々は、情報提供をしてお返しをするよう心掛けている」と言う。
 我々の「西荻春秋」の場合には、ボランティア活動とは言え、適材適所の人材をインタビュアーとして採用するか、適任者がいない場合は、時間をかけて勉強してから訪ねることにしている。
「すぎなみ学倶楽部」は、「区民ライターによる取材」が絶対条件だから致し方ない着地点なのだろう。

写真撮影の現場

 写真撮影技術も取材には欠かせないスキルである。「西荻春秋」のカメラマンのキャリアは、約10年~40年以上のベテラン。それでも厳密に言えば満足な結果が得られるのは稀である。
 写真は、『思考、感性、技術』それぞれの要素が満たされて作品となる。『思考』とは撮影対象を学んで自分の撮影目的を決定する能力、『感性』とは自身の生まれ育った環境から構築される美意識、『技術』は撮影機材の取り扱いやライティング技術のことである。
 通常、専門学校では、これらの技術を2~4年かけて教育する。プロカメラマンレベルともなれば、学びきれないほどの奥深さがある。最近はデジタルカメラが普及して、誰もが簡単に写真を撮れる時代になった。しかし、それは写すだけのスナップで写真とはいえない。
 一般人のほとんどは、マニュアル撮影も可能なカメラではなく、全自動カメラやiPhoneで撮影している。ライティング技術に至っては、まったく考えもしないだろう。「すぎなみ学倶楽部」では、年に2~3回、カメラ講座を開催していると聞く。
 手塚さんは具体的な指示を出すこともあるようだ。それはやむを得ぬ究極手段だと思う。
 これら現場の状況から、区民参加型ライターの育成と対応の難しさが見えてくる。プロであれば未熟な者は、即クビにすることが可能だ。しかし、区民ライターのやる気をなくさないようにしながら、掲載可能レベルに達するまで補助しなければならないからだ。編集を担当する人達の苦労は相当なものであろうと推測する。

著作権管理

 著作権法は知的財産権のひとつで、著作権の範囲と内容について定める法律である。これまで知的財産に関して日本人は寛容だった。もめ事を嫌い、人間関係を維持するために、お茶を濁す日本人気質がそうさせていたのかも知れないが、知的財産権に関する認識の希薄さもあったように思われる。
 グローバル化が進むにつれ、誰もが権利を主張するようになった。日本特有の玉虫色の時代は終焉に向かっている。しかし、お茶を濁す意識は、変わらない、いや、変えたくない人も多いだろう。玉虫色は、ズルサもあるが優しさも含まれているからだ。著作活動では、その曖昧な気もちが著作権法に抵触する可能性もはらんでいる。
 最近は、ほとんどの人がコンピュータで原稿を仕上げる。情報入手もインターネットで簡単に取得でき、長文でもコピーは簡単だ。「コピペ」という言葉が定着するほど普及度は増している。
 現在、新聞や雑誌などの記事でも「コピペ」を数多く発見する。私事で恐縮だが、自分の著書が漫画本として無許可で使われる被害を受けた。原本を書いた者には、すぐに盗作だとわかる。著作権法違反として訴訟を起こすか否かの判断を迫られる。訴訟も地獄、黙っているのも悔しい、どちらを取っても嫌な気分になるのは避けられない。
 観光係の出雲谷さんは「著作権法などの配慮から記事に使う資料の出所は明確にしなくてはならないが、文章の読みやすさを大切にするため、挿入する場所に気を使って対処している」と語る。著作権講座も折々開催しているようだが、「コピペ」は、書いた本人にしかわからない。事実確認するのは相当難しい。これを実行する「すぎなみ学倶楽部」には、ただただ脱帽するばかりである。

「すぎなみ学倶楽部」在っての「西荻春秋」

 以前、私は「すぎなみ学倶楽部」のインタビューを受けたことがあった。それまで当サイトの名前も知らなかった。また、「西荻春秋」メンバーのひとり、窪田幸子さんも取材を受け、「すぎなみ学倶楽部」に強い関心を抱くようになった。
 私は、杉並を対象にしたドキュメンタリーブログ「西荻春秋」の編集を担当している。主なメンバーは、カメラマンやライターや学芸員を専門職とする人々、更には、それに準ずる人たちである。
 編集で難しいのは、仕事よりも人間関係である。取材先の快諾を得ても、実際にブログに掲載できるのは70%。
「西荻春秋」には決まりがある。ボランティア活動なので、取材先と記者が納得できる内容になるまで話し合い、調整が困難な場合は掲載を断念するというものだ。
 互いの意志を尊重して、どちらを選択してもよい関係を保とうと努めているが、そうそう綺麗事では収まらない。明らかに発言しているのに記事の消去を要求、更には記者の感想にまで口出しする取材先もある。
 一方、ライターは誤字脱字の校正は素直に受け入れるが、長年培ってきた人生観に触れると気分を害することもある。ある日、役所で定年退職した男性が「西荻春秋」に参加した。原稿を読むと全てインターネットからのコピー、しかも著作権を心配したのか、それぞれに転載先が記されている。まるで会議用の調査資料である。
 原稿としては成り立たず却下したが、これまで彼の人生で大切にしてきた「自分を露わにしない」という信念に触れてしまったようだ。可哀想に思えるが、怒りを収めることは出来なかった。以来、取材に慣れたプロフェッショナル、それに準ずる人材とメンバーを組むことにした。
「すぎなみ学倶楽部」は、膨大な記事をどのようにこなしているのだろう。人格の異なる区民ライターとどう向き合っているのだろう。そんな思いが何時しか好奇心に変わり、取材をお願いすることになった。
 取材を終え、気づいたことがある。「すぎなみ学倶楽部」は報道媒体ではなく、情報を媒介として杉並区と区民のコミュニケーションを構築する媒体なのだと。また、アクセス数が多いのは、単に区の看板で情報を発信しているからではなく、公共サイトでありながら世間の流行にとても敏感、考え方も柔軟でフットワークもよいから達成出来たのだと思う。
 杉並には「すぎなみ学倶楽部」を代表として、民族学的研究プロジェクトで上智大学社会学教授、ファーラ―・ジェームス氏が主宰する「西荻町学」、西荻窪の小さな情報を伝える「西荻丼」など、多数の優れたウエブサイトが存在する。それぞれが異なる目的とスタイルで情報発信している。
 私たちの「西荻春秋」は、昭和時代に脚光を浴びたドキュメンタリー・グラフ誌のブログ版と位置付けている。ブログとしては長文で事実を検証した上で、著者の意見を伝えることに主眼を置いている。写真は場面をイメージさせるツールと考え、一枚一カットを大切に撮影し、時間を惜しまず丁寧に仕上げている。

「すぎなみ学倶楽部」と「西荻春秋」は価値観が真逆のウエブサイトである。しかし、「すぎなみ学倶楽部」の存在あって、われらブログの確固たる道筋を確認できた気もする。互いに切磋琢磨して成長して行きたい。

文:奥村森 写真:澤田末吉

取材日 2016年10月25日

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見聞・『荻窪風土記』———井伏鱒二の世界

 井伏鱒二『荻窪風土記』(新潮社、1982)は、大正の関東大震災以降、井伏が暮らした荻窪の記憶を随筆風に綴った作品である。今回の取材では、井伏が書いた『荻窪風土記』の現場の“今”を訪ね、景観の移り変わりを記録するとともに、古くから荻窪地域に住む人々に当時の様子を尋ねることで、『荻窪風土記』の世界を〝見聞″していくことを目的とした。
 JR荻窪駅は、現在では1日平均88,000人以上(2016年度)が利用する、中央線沿線でも人気のまちである。駅北口には大型のショッピングセンター「荻窪タウンセブン」がそびえ、多くの買い物客で賑わう。東京メトロ丸ノ内線の終着駅にもなっている「荻窪」は、多くの人が行き交うまちだ。
 そんな荻窪ではあるが、昭和初期にはまだまだ人家は少なく、農村風景が広がっていたという。昭和2年(1927)、荻窪に転居先を求めに来た文豪・井伏鱒二は、「麦畑のなか」で農作業をする「野良着の男」に声をかけ、土地を借りることになる。これが『荻窪風土記』のプロローグにもなっている。

青梅街道「八丁」交差点

 我々は現在の『荻窪風土記』の舞台の様子を取材するため、荻窪の「八丁」に向かった。青梅街道の四面道交差点より西側には、現在「八丁通り商店会」がある。そこでかつての荻窪の様子を知る人を探そうと、不動産屋((有)桃井山口商事)を訪ねた。ここは総業50年を越える老舗不動産屋だ。そこで、地元の町会である中通明和会の会長志村彰彦さん(81)をご紹介していただいた。そして志村さんのお計らいで、志村さんの同級生の井口清さん(81)と、松原安雄さん(89)の御三方に取材させていただくことになった。みなさん、生まれながらの〝荻窪人″である。
 まずは子どもの頃の荻窪の風景・印象についてうかがった。

まちの景色

志村彰彦さん

 「そうですね、農村ですよ。純粋な農村。荻窪駅の周りはね。荻窪駅のあたりは、後から発展したところで、実際には八丁、四面道から駅とは逆の方が繁華街だった。駅の方は家数が少なかったですよ。」(松原)
 荻窪駅が開業したのは、明治24年(1891)の12月である。なんとなく現在の常識からみてしまうと、駅の周辺こそが繁昌していたのではないかと思いがちだが、考えてみれば必ずしもそうであるはずはない。大正頃の荻窪駅は、1日に上り下りとも各9本の汽車が運行するだけでしかなく、大正3年の1日平均の乗客数は、わずか197人だったという(森泰樹『杉並風土記 上巻』)。
 一方で、江戸時代の荻窪は、青梅街道筋にあって、御嶽山登山参詣の道としてにぎわっていた。これは天保五年(1834)に刊行された御嶽神社への道中案内書である「御嶽菅笠」にある「荻久保の、中屋の店に酔伏して」との記述からうかがえる。「中屋」の場所は明確ではないが、荻窪には御嶽参詣人を「泥酔」させるような店があったのだろう。荻窪駅が開業して発展するまでは、現在の八丁商店街のあたりこそが、荻窪の中心地だった。
 荻窪駅も、現在とは全く違った様子だったという。
「俺が会社に行きだした昭和30年ころはまだ全部木造だったんじゃないかなぁ」(志村)「昔、荻窪駅は北口が無くてね。南口しかなかったんですよ。北口が出来ても、私らが若いころは、朝早く行く時や夜遅い時はね、(北口は)閉まっちゃっていて、南口にまわるしかなかったんですよ」(井口)
 荻窪駅が開設された当時は、南口だけの平屋建て駅舎だった。開設当初の荻窪駅の雰囲気は、荻窪の古老矢嶋又次氏が描いた「記憶画」によってよくわかる。北口が開設されたのは、昭和2年(1927)の春のこと。マンサード型(牧舎型)の屋根をもつ、モダンな雰囲気の駅舎だった。この駅舎の写真は写真でも残っている。昭和37年(1962)、地下鉄荻窪線(現・東京メトロ丸ノ内線)の開通に伴って、荻窪駅は地下化されることになり、北口駅舎もビルに改築されることになった。
「青梅街道も、昔はもっと細くて曲がっていたよね。」(井口)
「そうそう、昔の青梅街道はね、ずいぶん狭かったんですよ。今の道で一番わかりやすいのはね、今の北口の交番と商店街の間の道があるでしょう?

荻窪交番前

あれが青梅街道。広くしたのは中島飛行機が出来たからじゃないかな」(松原)
「(中島飛行機は)軍需工場だったから突貫工事だったんだろうね。毎晩資財を運ぶんで、戦車の音が聞こえていたよ」(志村)
 荻窪の古老矢嶋又次氏の著作『荻窪の今昔と商店街之変遷』(1976年)には、当時の青梅街道の写真が掲載されている。なるほど今の青梅街道からは想像もつかない景観である。


『荻窪の農業』(左表 杉並区立郷土博物館蔵)と矢嶋又次『荻窪の今昔と商店街之変遷』より (右写真)

『荻窪風土記』には、沢庵が荻窪での主要物産だったとある。昭和6年~8年頃、詩人の神戸雄一に土地を貸していた地主は、漬物屋だったという。
では純粋な農村だった荻窪では、何が生産されていたのだろうか。
「この辺で作っていたのは蔬菜類ですね。米はあんまり。大麦は作っていましたね。水田はあんまりなかったからね」(松原)
「米でも陸稲だよね」(井口)
「菜っ葉とかだな。小松菜なんかね。ほうれんそうとか三つ葉とか」(志村)
 昭和35年(1955)に刊行された『杉並区史』をみると、杉並区全体の「蔬菜類作付面積」は、昭和7年では馬鈴薯が167町で全体の中で一番多く、次いで大根が133.8町あった。ところが、昭和15年をピークとして、全体的に作付面積は減少していき、戦後の昭和27年段階では、40町を切るまでになっていることがわかる。
「沢庵も作っていましたよ。だいたい大根を作っていたね」(松原)
「この辺の大根も“練馬大根”って言っていましたよ。漬物は自分のうちでやっていたね。漬物を作る樽もいっぱいあって、その上に乗せる石がね、デカくて丸い、持てないような石が何百ってありましたよ」(井口)
「それの集大成が井草八幡宮に今でもある“力石”ってやつですよ」
「大根を〝矢来″にかけるまえに洗うんですよ。それを小さいころ手伝わされたんだけど、寒い時は水が冷たくてね。手がかじかんじゃった記憶がありますよ」(松原)

大根干し(清水、昭和10年頃)杉並区立郷土博物館蔵

 昭和初期の荻窪では、いたるところで矢来に大根を干した風景がみられたのだろう。杉並区立郷土博物館所蔵の写真からも、そんな風景がうかがえる。
 荻窪でつくられた農産物は、神田や京橋のほうへ出荷されたという。『荻窪風土記』にも、天沼の長谷川弥次郎さんの話として、大八車で東京の朝市に出荷する話が出てくる。実際に、御3人からもこれと同様なお話をいただいた。
「うちの親父の話でも、ここらへんから京橋に大八車で持っていったって聞いたよ」(志村)
「神田のほうにもっていくんですよ。そしたら青梅街道の鳴子坂のところには、大八車を押す人が必ずいるんです。でもそっちに卸しに行ったらね、二日三日は帰ってこないんですよ(笑)」(井口)
――――帰ってこない?
「鍋屋横丁に飲み屋がいっぱいあってね。それで帰ってこない(笑)。私のおじいさんなんかもそこにひっかかって帰ってこないから、親父が迎えに行っていたって言っていましたよ(笑)」(松原)
 なるほど、納得である。
 関連するかはわからないが、江戸時代の川柳に「新宿に 遊ぶにはこれ 妙法寺」という句がある。江戸の人たちは西の堀ノ内妙法寺に参詣に行く「ついで」に、当時から盛り場だった内藤新宿に遊びに行ったという。江戸時代から、杉並地域の人たちは江戸に野菜を卸していたというから、西の人たちは仕事の「ついで」で遊ぶことを楽しみにしていたのかもしれない。つくづく、人は遊びたがるものである。

井口清さんと松原安雄さん

昭和初期の子どもたち

 続いて、子どもの頃の遊びの話についてうかがった。
―――虫切り―――
「〝虫切り″をやっていたおじいさんがいましたね。虫切りっていうのは、子どもの疳(かん)の虫を封じるというまじないのことでね。手相のすじをちょんちょんときるんです。そうすると赤ちゃんの夜泣きが治るっていう」(松原)
「虫切りの日っていうのは、日にちがきまっていて、そのおじいさんは立川のほうから電車で来るんです。荻窪駅を降りて、ちょうどうちの前を通るんだけど、子どもを何人もつれて歩いて来るんですよ。あぁ、虫切りの日だっていってね。そのころになると4、50人くらい連れてあるいていましたよ」(井口)
 “虫切り”は“虫封じ”とも言われる疳の虫封じの呪法で、民間信仰(療法)のひとつである。かつては親を悩ませる子どもの夜泣きは、一つの病気であり、体内に宿る虫が子どもの疳を起こすという考えがあり、いろいろな療法が行なわれていたという。
―――木登り―――
「私がいちばん覚えているのは、木登りの記憶ですね。このへんのガキ大将がいてね、木登りをするんですけど、私だけ木に押し上げられてね、それで気がついたら誰もいない(笑)。ワーワー泣きましたよ」(松原)
 子どもがやんちゃなのは今も昔も変わらない。ずいぶんとひどいこともする。
「木登りといえば、柿の木に上って、生っている柿をとってよく食べたよ(笑)」(井口)
「そうそう。でもお母さんに「ダメだよ」って言われるから、下からみえるとこだけ残して上の方だけ食っちゃう(笑)。お母さんは上ってこないからね。下からみたら食べられているってわからない(笑)」(松原)
「あの頃はみんな腹が減っていたから、みんな柿をもっていっちゃうんだよね」(志村)
 とてもユニークなエピソードである。子どもたちもいろいろと考えるのだ。その柿は、結局最後はどうなったのだろう。
「木に登るとね、いまみたいに高いビルがなかったから、富士山とか、秩父の山が綺麗にみえたんですよ。もう全部目の前にみえるような感じでね」(井口)
―――魚獲り―――
「妙正寺の川で魚すくいにもいったね」(井口)
「鮒・ドジョウね。あとは〝赤べったん″。タナゴのことね」(志村)
※森泰樹『杉並の伝説と方言』では、「あかんべえ=たなご」という方言が紹介されている。
「あとは〝えびがに″がいくらでも獲れましたよ。バケツ一杯とかね」(井口)
――えびがに?
「あれはアメリカから来たんじゃなかったかな」(松原)
 どうやらアメリカザリガニのようだ。近年では生態系を崩す〝外来種″として問題視されているが、昔も今も子どもの遊び相手だった。ちなみにアメリカザリガニが日本に輸入されたのは昭和2年(1927)だというが、みなさんの子どもだった昭和10~20年代頃には、既に杉並にもたくさん定着していたのだろう。
「台風の翌日なんかになると田圃が冠水しちゃってね、そこに鮒なんかがいっぱいいたよ。ナマズなんかもいましたね」(志村)
―――動物の思い出―――
「イタチもいたね。物置の下に巣をつくっちゃって。かわいいんだよ。あとはフクロウもいたな。このへんに杉林があって、夕方鳴いているのを聞いたな。」(志村)
「戦後はヘビなんかも多かったですよ。小さいころのある晩に、私一人で八畳の部屋に寝ていたんですね。そしたら夜中に〝ぱたん″って音がするの。で、ふと上をみたら梁(ハリ)の上にヘビがいたの。1メートルくらいあるデカいやつ。昔は囲炉裏を使ってたんでね、囲炉裏の熱で、そこが暖かかったからか居ついちゃっていた」(松原)
―ギョっとするエピソードですね…。
「ヘビなんかはね、とりにいって、焼いて食ったよ(笑)。シマヘビね。あとは高校生くらいのときにね、いたずらでヘビをポケット入れて、女子のとこいってねそっと見せて脅かしたこともあったよ(笑)。まぁ今だったら問題になっているだろうね(笑)」(井口)
「アオダイショウはね、2メートルくらいデカいやつもいたよ。」(松原)
 都市化が進んだ街中では、あまり生き物を見なくなった気がする。かつてはもっと生き物(ペットとして買われたものではない野生の生き物)と共存していたし、子どもたちの遊び相手でもあった。…もっとも、ヘビ嫌いな私としては、2メートルのアオダイショウはごめんではあるが。

戦後直後のくらし

「このへんは芋畑も多くてね。終戦直後はサツマイモを作っていました。「茨城一号」とかいってね、大きいの。そんでね、まずくて食えたもんじゃない(笑)。それを供出に出していましたよ。それでも芋泥棒も多くてね。番小屋をたてて、親父と交代で番をしていました。ある晩、私が先に番をして、家へ帰って寝ていた時に、「来たぞ!」って親父に呼ばれてね。で畑に行って、囲むようにしたんだけど逃げられちゃった。そんなこともありましたよ」(松原)
 終戦直後は治安もあまりよくなかったという。
「このあたり、街路灯が無かったころは、追いはぎが多かった。終戦後。うちにも近所のおじさんが飛び込んできたことがあった。“助けてくれ”って。終戦後は怖くて道が真っ暗で歩けなかったよ」(志村)
「このへんだって街灯なんかなんにもなかったからね」(井口)
――闇市――
「駅の北東方の辺り(現:インテグラルビル付近)はみんな闇市でしたよ」(志村)
「タウンセブンのところもね」(松原)
「そう、バスターミナルのところも全部闇市でしたよ。昭和30~40年ころに火事があってね。それで焼けちゃって変わっていった」(志村)
 戦後復興から高度経済成長のなかで、荻窪駅周辺の様子は劇的に変わっていく。それは戦後の苦しい時代を、必死で生きていった人々の記録でもある。
「タウンセブンとかあるところは、ついこの前まで木造のマーケットだったからね」(井口)
 現在では荻窪のまちを象徴するデパートでもあるタウンセブンビルは、荻窪新興商店街周辺の再開発として、昭和56年(1981)の9月に完成している。こうして荻窪は東京屈指の人気のまちになっていくのである。

『杉並区史』より

お話をうかがって

 昭和初期、荻窪は純粋な農村風景だった。そこから約一世紀をかけて、荻窪駅とその駅前の風景は、劇的に変わっていった。今の風景からは考えられない“風景”を、お話から見ることが出来た。
 杉並区の人口は、現在では56万人を超えている。それも、戦後から高度経済成長期にかけて、急激なカーブを描いて人口が増えているのである。今まちに住む多くの人は、風景が劇的に変わった後に、荻窪の外から移り住んできた人たちである。ひと昔前の荻窪の風景を知る人は、少なくなってきている。
かつて、こんな風景が荻窪にはあったのだ。お話をこうして残すことで、少しでもその風景を残すことが出来れば良い。
文責:駒見敬祐
写真:窪田幸子
資料提供:杉並区立郷土博物館
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 昭和の文化人に愛された「たみ」 

及川ヤスエさんの人生

 福岡から上京してきた姉妹が紡いだ物語。
 西荻窪の居酒屋「たみ」と国立の「関民帽子アトリエ(現atelier Seki / アトリエ関)」。東京という文化の中心地に飛び込んで夢をかけた二人の物語がここにある。
 
 西荻窪駅南口から銀座通りをすすみ、郵便局の反対側の路地をまがると「たみ」はある。この辺りの店は概してそうなのだが、昼間はひっそりと目立たないのが多い。夜になるとトマリギ的な雰囲気を醸して客を魅了する。たみはそのなかでも更にひっそりと佇んでいる。
 入口の扉を押すと、視線は自然、お客の背を飛び越えてヤスエさんに向かってしまう。言葉を二、三交わしてから席に落ち着いて、おもむろに相客に挨拶をする。そんな雰囲気なのである。ふらりと店に入ってきてはおのおのカウンターに座って一人酒を傾けながら、及川さんと掛け合い話、と思うと隣、はたまた遠く離れた席とも飾ることなく議論に花を咲かせる。相応しくない客はそこにはいない。
 
 平成二四年の桜の季節。ヤスエさんは引退した。
 

 

 この街には多くの“西荻らしい”と云われる店が或る。「西荻らしいとは何か?」と問うと「温かそうでつめたいまち」そう答えが返ってきた。人間、文化芸術を縦横に織込んだ「たみ」は一体どういう場所だったのだろう。
 
「こけし屋はリベラルだけど、うちは左の方が多かった。みな神経質だけれど、優しい。人を傷つけたりしないけれど信念を持っている。広い街で寂しかったから」お酒の飲めない者が脚をむけても受け入れて、良心的な値段だったのはそのようなことだったのだろう。「博識ですね」とむけると「みなお客様が教えてくれた」そう返された。
 
 北朝鮮新幕生まれ。敗戦の年、ヤスエさんは一七歳で38度線を歩いた。祖父、金子さんが家族とは別の女性を連れて大陸に渡った。どんな汽車も泊まる駅で旅館を開き、家族を故郷から呼び寄せた。朝鮮の人を使用して生活の苦労のない少女時代を過ごしたという。女学校では教室の半分は朝鮮の人で当時は日本名を使用していた。勤労奉仕で松根油を取るための根を掘ったが、暫くして身体を壊し、慰問袋を縫うようになる。
 玉音放送を聞いた時、音が大小して判らず、兵士も「がんばろうということだ」と鼓舞した。一二歳、としの離れた姉の民さんは、当時学校の先生をしていた。父はモダンボーイで玄関先に帽子を引っかけたり、ダンスを積極的に勧め、ホールで踊ったりした。お金が出来て、従兄弟も呼び寄せ学校を出してやったりもした。
 大陸で育った強さが姉妹にはあった。
 
 引き揚げは過酷なものだった。お金で案内を頼んだが裏切られたり、「休み」と言われて寝てしまい、気付いたら独りぼっちであった。泣いて何時間過ごしたかわからない。親が探しに来てくれなかったら売られていたかもしれない、と云う。
 
 引き揚げ後、九州の久留米で洋裁の勉強を始めた。父の友人が「勉強するなら東京に行きなさい」と云うので一九四七年姉妹は東京へ出る。姉の民さんが皇后さまの帽子職人でもあった平田暁夫(二〇一四年八九歳にて死去)に師事する為、姉妹は西荻窪に住まう。そして修行中の生計を立てるために社交好きの民さんがガード下で「たみ」を始める。当時珍しい九州の本物の陶磁器を置く店として文化人が集まるようになった。しかし数年を経ずして芸術家、関頑亭氏と結婚。国立に引っ越してしまう。未だ二〇代で「たみ」を引き継ぐことになったお酒も飲めないヤスエさんを心配した常連客が“七人の守り人”となった。
 
 店は何回か改装をしており、東京オリンピックの年に現在の場所に移転した。ガード下の店を改修した早稲田の有名な建築家、飯田さんの設計によるもので今とは全く異なる山小屋風。入口も現在とは逆の右側で二階にはヤスエさんが住んでいた。七人の守り人は心配して、飯田さんにかわるがわる質問をする。最初は「いらっしゃいませ」も言えなかったヤスエさんが、やめようと思わなかったのは、人と話すことが苦でなかったこと、お客様の存在が大きかった。「お客様に育てられた」と云う。
 現在の店構えは同じく早稲田の建築家、安田与佐氏によるもの。リニューアルは設計だけでなく、暖簾から飾る作品に至るまで徹底して監修。照明は現在の場所に移ってから今日まで近藤昭作氏。のれんは古田重郎氏、マッチは大歳克衛氏のデザインであった。
 ヤスエさんにとってお酒は二の次で奥様をなくされた方、境遇の話がしたい人、自慢話がしたい人、話が大事だった。お酒を出したくない客が来ると「出すお酒がないんですよ」云う。相客が「出してやってよ」と云ってもしらんぷり。外でお客が「ばかやろー」と叫んだりした。
 そんなヤスエさんを支えたのはどんなご主人だったのだろう。及川さんはサラリーマンだったが義姉、及川道子さんは昭和一三年、二六歳で早折した著名な女優であった。家風がとても優しかったと云う。

 

 ヤスエさんはいま、帽子アトリエ「関民」で姉民さんのお弟子さん達、約十名の作品に囲まれて店番をしている。帽子作家として有名になった民さんのお店は、国立駅から斜め右手にまっすぐ進む道を左に折れると、その趣或る佇まいが目に飛び込んでくる。
「私だけの帽子」を探しにおとずれてみてはどうだろう。

参考文献
更谷いづみ著 『帽子作家 関民 Tami’s Spirit ‐こころが動きだすヒント‐』
Izumaqui 2011年
atelier Seki / アトリエ関(旧:関民帽子アトリエ)
ホームページ http://atelierseki.jimdo.com/
住所:東京都国立市中2−2−1
電話:042-574-1771
営業日:月、水、金曜日
定休日:不定休
営業日&営業時間は毎月異なります。お問合せください。
文章 窪田幸子
写真 澤田末吉
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時計修理一筋人生の村田規晥(ノリキヨ)さん

井草 村田時計工業所 村田規晥(ノリキヨ)さん

 初めてお会いした時、ワイヤールーペをつけて迎えてくれました。かたときもこのルーペを離さず過ごされているのではないかというのが第一印象でした。
 

 村田さんは81才になります、まだまだ元気に第一線で活躍しております。特別に何か健康法をしていますか?と尋ねますと「いやなにもしてないよ」との返答です。時計に向かって仕事をしている時が一番の健康法ではないでしょうか。
 村田さんは山梨県大月市でお父さんが営む時計修理の家に生まれました。時計の修理だけではなく、蓄音機やラジオの修理も引き受けてご近所からとても重宝で喜ばれていました。小学生のころにはお父さんの仕事を見て機械に興味を持ち、時計や蓄音機のゼンマイの交換をみよう見まねで行っていました。中学生になると自分で5球スーパーラジオを組み立て、「初めてスイッチを入れた瞬間シューツと音が鳴って声が聞こえた時は嬉しかったな~」と懐かしんでいました。
 

 その後専門学校のラジオ学科に進み、ラジオの仕組み、原理を学びました。当時父は“経験と感”で故障の原因を見つけて、修理をしていたが、自分は故障の原因を理論的に把握し修理ができて、設計図が頭の中に入っていた。自分でオリジナルのラジオを作り100台ほど売ったよと話していました。
 その頃、兄も時計修理の仕事をしており、初任給が16.800円の時代に月10万円を稼いでいるのを聞いて、自分もやってみたい、その道に進もうと決意しました。バラバラの部品を組み立て完成させる仕事です。普通は一日頑張って20個位でしたが、村田さんは40個仕上げました。何よりも達成感、満足感を満たす事ができ収入も10万円ほど稼ぐことができたそうです。
 そこから修理専門の仕事に進み、多くの同業の方やパーツメーカーの方と人脈が広がっていきました。後に独立してからどんな部品でも入手できるようになったのは、この頃の人脈のおかげですと話していました。やがてメカ時計(機械式)からクォーツ時計の時代に移っていきます。クォーツの時計では長年培ってきた技術は生かせず仕事の量は減っていく事になりますが、あくまで自分の技術を生かしたいと四六時中仕事に没頭できる自宅に時計修理の部屋を作り、村田時計工業所としてスタートしました。その時、銀座の大手時計会社の指定工場になり修理に必要なとても高額な機械、道具など支給していただき強い信頼関係が生まれたと話していました。
 

 今は正確な時間を求めるのであれば、電波時計やスマートフォンでいいでしょう。でも自分しか持っていないアンティーク時計、高価なファッション時計やステータスのブランド時計などまだまだメカ時計の愛用者は多くいらっしゃいます。これからも自分の技術は生かせる時代は続く、とにかく時計が好き、どんな時計でも直す事に喜び、生きがいを感じる、リタイアなど考えた事はない仕事ができるうちはいつまでも続ける、と笑顔で語りました。
 村田規晥さんは此の八月にご逝去されました。心より御冥福をお祈り致します。
 
文 冨澤信浩
写真 奥村森
 
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「てんぷら矢吹」 この道60年

 最初に揚げたての車海老を口元にはこんだ瞬間、何とも言えない香りを感じました。「ワァー、これは…..」。もう言葉がありません。皆さんもぜひ、「てんぷら矢吹」に足をはこんでみてはと思います。
 

      

修学旅行での感動

 矢吹恭一さんは神戸で生まれました。中学の修学旅行で東京に来たとき、自由時間にお兄さんの働く銀座「天一」を訪ねました。そこでご馳走になったてんぷらに感動しました。自分もこういうてんぷらを作りたいと強く思い、卒業後上京して「天一」で働くことになったのです。新入りは自分ひとり。朝から晩までだいこんをおろした日、つらい事やくやしい思いもしました。「いろいろありましたが今はそれが全て役にたっています」と笑顔で話しました。19年修行して、独立は35歳のとき。「天一時代、とても懇意にしていただいたお客様が、骨を折ってくれました。その方との出会いがなければ今の自分はなかったでしょう。」と、とても恩義に感じていらっしゃるようすでした。
 

「店を出せばお客が来るというものではない!」

「天一」創業者の言葉です。高井戸には、同業のお店もたくさんあります。1年半位は苦労しましたが、お客様がお客様を紹介して、経営も軌道に乗ったそうです。「口伝えで少しずつ軌道に乗って行きました、お客様のおかげです。本当にお客様に感謝しております」と当時を振り返りました。
 

 自分の作ったてんぷらに合うお酒にも深いこだわりがあります。いま出している日本酒は「玉の光」「羽黒山」、ビールは「キリン一番搾り」。お酒の話題になると、矢吹さんの顔もほころび話が弾みます。
「人気の銘柄で入手困難なお酒でも絶対に品切れをおこさない、てんぷらとお酒を楽しみに来られたお客様に『お酒が切れています』ではガッカリされるでしょう。こんな失礼はありません」。と、少し強い口調になりました。

労を惜しまず、心、からだで伝える

「労を惜しまない」。これがてんぷら矢吹のモットーです。いつもこの姿勢を忘れずにまな板と鍋の前に立ってきました。現在は、サラリーマンを経験後、料理学校に通った息子さんと二人で店を切盛りしています。もちろん、カウンターの中では息子 優行さんもてんぷらを揚げます。
「将来は息子にとの思いはあります」と話していましたが、75歳の矢吹さんはとてもお元気です。てんぷら一筋の人生はまだまだ続くことでしょう。

てんぷら 矢 吹

住所:東京都杉並区高井戸東3-28-24 ドムス高井戸1F
電話:03-3334-0070
営業時間:11:30~14:00  17:00~21:00
定休日:毎週水曜日、木曜日(定休日が祝日の場合は営業します)
* 定休日の情報は2017.1.11に確認、変更させて頂きました。
・京王井の頭線 高井戸駅下車 環八を北へ徒歩8分 環八井の頭交差点を右へ井の頭通りを永福町方面へ50m右側
・JR荻窪駅南口 バス4番乗り場「芦花公園行」下車10分 バス停「井の頭通り」下車1分
・駐車場4台
文章 冨澤信浩 協力 岡村繁雄
写真 奥村森
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和菓子の 「三原堂」 ー顧客に愛されて80余年

西荻北 「三原堂」 三代目当主 田中好太郎さん

 西荻窪駅北口を出て北銀座通りに向かう。三井住友銀行を右手に見ながら少し進むとローソンの丁度向かいにあるのが三原堂である。
店内に入ると季節の生菓子、最中、おせんべいなどが目に飛び込んでくる。お客様もひっきりなしである。買い物帰りの年配の女性、片手にコーヒーを持った若い男女のカップル、注文の品を取りに来た中年の男性と、老若男女幅広い客層に驚かされる。

祖父が新潟から上京し、西荻に出店

昭和30年代半ばの写真 一番左が創業者である祖父の吉雄さん。その隣が吉雄さんの妻である好野さんと従業員の皆さん。日本一の槻(けやき)看板「横幅9尺、高さ3尺2寸、厚み2寸、重量65貫目 昭和27年制作」 看板に歴史あり

西荻の三原堂は昭和10年創業。西荻で二番目に古い和菓子屋である。現在の三代目好太郎さんの祖父吉雄さんが店を構えた。吉雄さんは新潟県小千谷市出身で農家の次男坊。大正初期か中頃、東京に出て四谷の三原堂で丁稚奉公を始めた。(現在でも人形町に本店を構える三原堂は明治10年創業で、その支店が当時は四谷にもあった。)
その後何年か働いて独立し、暖簾分けされる際、場所は幾つか候補があったが、最終的に吉祥寺と西荻窪に絞った。「うろ覚えなんですが、三鷹の方にお客さんがいたらしく、祖父は電車あるいは歩きでこの辺りを通ってたんですね」
「昭和8年に、幾つかの候補の一つであった旧井荻村(現在の西荻一帯)が区画整理されたんです。隣の高井戸村は田んぼの区画割そのまんまなんですが、旧井荻村は碁盤の目のような区画割で、おそらく住宅の誘致も始まっていた頃だと思われます。お役人さん、今でいう公務員ですね、それから初期のいわゆるサラリーマンが移り住んで来ると思ったわけです。農家の場合は自分の家でお餅をつくけど、彼らはお餅を家でつかないので、和菓子の商売にはいいのではないかと考えたようです。当時は店のそばの信号から北側の向こうにある本町会商店街(今の100円ローソンより北側)が西荻の中心地だったので、ここから南の駅までの間は何もなかった。しかし、これからは駅に近い方がいいということで駅前に店を構えたんですね」

祖父はマメで好奇心旺盛な人

創業当時の大福帳が今でも大切に残っている。「初日が金105円。昭和10年頃の物価でいくと現在の30万円位。開店のご祝儀もあったかもしれないけど売り上げは結構良かったんですね。他はもっと少ないですけど。」と三代目の好太郎さんは笑う。

大福帳と当時のスタンプカード 謝恩券

昭和10年の年末のお餅の注文票もある。「関根町、今の上荻4丁目ぐらいだと思うんですけど、中野区の上高田、井荻、松庵、結構三鷹の方まであるんですね。他にお店がなかったんでしょうね。だからそういうところまで配達に行ったんですね」
昭和11年のスタンプカードも見せていただいた。当時としては斬新である。「30銭お買い上げで一個捺印。今でいうと\1,000で一個捺印。\15,000お買い上げで映画券が一枚付いてくるぐらいのもの。結構割がいい。その頃の映画館って高かったですよね。今でいうとディズニーシーの入場料くらいの値段ですよね。」
昭和12年頃の新聞の切り抜きを切り貼りしたものも結構残っているそうだ。創業者の吉雄さんは好奇心旺盛で、東京のどこかでこういうセールをやってお客さんが集まったとか、アイスコーヒーの作り方とか情報を熱心に集めていたそうだ。
長年愛される理由は手作りの味

「和菓子も大手さんとかはオートメーション化をしたり、便利な材料ができたりした時代があるわけです。売り込みもあるわけです。機械でお饅頭が作れますよとか、これ入れれば一日しか持たないのが一週間持ちますよとか。でもうちはやらなかったです。昔ながらの手作り。かなり面倒臭いですが、端折らないでというのを今でもやってます。その味を西荻のお客さんがわかってくれるんじゃないかと。それで続けていけてるんじゃないかと思ってます。」
大切にしているのは素材、手間、技術

「お菓子を作るポイントを挙げると昔から素材、手間、技術という感じですかね。素材は安心できるものと昔から使っている材料を守るようにしています。手間は省かず。例えばお餅。機械に頼らず手でこねることにより味が全然違います。そういうところを省かない。技術は職人さんが持っている技術。綺麗に美味しそうに見えるようにと。」

初代吉雄さんが作成した季節のお題目ノート。職人さん達がこの題目にヒントを得て思い思いの季節の和菓子を創作したというアイディアノート的なもの。

三世代にわたる顧客

昭和47年頃の写真 鳥一の隣にあった頃、かしわ餅を求めて並ぶお客様

「西荻窪の和菓子屋さんは完全に住み分けができていてバッティングはしません。顧客は代々西荻の方が多いです。西荻はまだ三世代家族が多い。おばあちゃんからお子さん、お孫さんに引き継がれています。」
「デパ地下に入っているお菓子は人にあげるもの。うちのお客さんは自分で食べるために買いに来るので手を抜いたら怖いですね。例えば支店を出して、そこでもまた売るというほど作れるかというとそれだけの量を作れないです。今がちょうどいいくらいで、どんと売り上げを伸ばすとかそういうことは考えてないです。」

三代目当主 田中好太郎さん
三原堂のパッケージデザインは全て粛粲寶(しゅくさんぽう)によるもの

*粛粲寶は(1902~1994年) 享年93歳。新潟の生まれで、のちに東京に住して洋画を黒田清輝に、日本画を小林古径に学んだ。花鳥、静物、人物画を得意とした日本異色画家と呼ばれる。
サラリーマン時代はマーケティングに携わっていたという好太郎さん。お客さんが何を求めているのかをきちんと受け止めて、昔ながらの味を大切に守り続けていこうとしている。
店頭で年配の女性が言う。「うちは両親の時代からここなの。だからどこに何があるか見なくてもわかるのね。今日は孫に頼まれておせんべいを買いに来たのよ。孫はここのおせんべいが好きでね。」
西荻で三世代に亘り愛されている三原堂。その原点は創業以来、今も脈々と受け継がれているのである。

西荻窪のお店には文化人のエピソードが残る場所がある。写真は山下清と彼を支援する三原堂支店主の奥様方。店内には作品集と画が飾られている。

三原堂
住所:東京都杉並区西荻北3-20-12 グラツィオーソ 1階
電話: 03-3397-3998 FAX: 03-3397-3997
営業時間:9:00~19:00
定休日:日曜日
JR西荻窪駅 北口 徒歩1分
信号を渡り『喜久屋』より4軒目左手『ローソン』の向かい。
文責 小野由美子
写真 澤田末吉
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